「新型コロナは中国の人造ウイルス」陰謀論はなぜ広まるのか
ノーベル賞受賞者と米大統領のトンデモ発言
[ロンドン発]ヒト免疫不全ウイルス(HIV)の発見で2008年ノーベル生理学・医学賞を受賞したフランスのリュック・モンタニエ氏が「新型コロナウイルスは人造ウイルス」「中国の研究者がHIVワクチンを開発中に中国湖北省武漢市の研究所から漏出した」と発言し、「中国人造ウイルス」説が再び世界中を駆け巡りました。
ドナルド・トランプ米大統領も「紫外線であろうが、単にとても強力な光であろうが人間の体に大量に照射して温めれば効果的なのか」「消毒薬は1分もしないうちにウイルスを殺す。体内に注射すれば同じようなことができるのか。効果を確かめるのは面白い」と発言。消毒薬の間違った使用は生命の危険につながるため世界中の批判を集めました。
ワクチンも治療法もまだない新型コロナウイルスの大流行を受け、さまざまな陰謀論や懐疑論がくすぶり続けています。世界中から集められたゲノム(遺伝情報)から新型コロナウイルスの起源をたどると「中国人造ウイルス」説は、「次世代通信規格5Gから出る電磁放射線が感染症の原因だ」という陰謀論と同じように非科学的、非論理的です。
また「新型コロナウイルスはアメリカの対中国バイオテロだ」「ワクチンで儲けるための米政府の陰謀」「ジョージアの首都トビリシの研究所でアメリカの資金援助を受け、何年もの間、生物兵器が生産され、人体実験が行われている」などの陰謀論も渦巻いています。こうした陰謀論はいったん出回ると完全に否定して排除するのは非常に困難です。
「アメリカの月面着陸は捏造」「秘密結社が世界を支配」
地球温暖化を巡っても「温暖化は人為的な温室効果ガスの増加よりも自然の影響がはるかに大きい」と唱える懐疑論がいまだに流されています。「アメリカの月面着陸は捏造」「秘密結社が世界を支配している」――など、いつの時代も陰謀論は広がり、世界を惑わせています。信じている人は真剣なので手に負えません。
今回のコロナ危機に乗じて、香港や南シナ海での実効支配を進める中国に対する警戒論が強まっています。中国がこれを機に世界を支配してしまうのではないかという危機感が「中国人造ウイルス」説の背後にはあります。中国憎しの陰謀論や懐疑論に飛びついてしまうメディアやジャーナリストが多いのはそのせいです。
「5Gから出る電磁放射線が感染症の原因」説から見ていきましょう。新型コロナウイルスの流行は新しく建てられた5Gネットワークのアンテナからの電磁放射線が原因という説が広がり、イギリスでは電気通信事業者の作業員や5Gネットワークのアンテナへの攻撃が相次ぎました。マイケル・ゴーブ内閣府担当相は「危険なナンセンス」と否定しました。
5Gネットワークが構築されていないイランでも新型コロナウイルスが流行していることから、この説はデマであることが分かります。
しかし陰謀論者は「5Gは3Gや4Gよりも強力で、電磁放射線に暴露されると吐き気、脱毛、骨髄損傷の症状を引き起こす」「5Gの電磁放射線で免疫力が低下する」と主張。5Gネットワークがないにもかかわらずオランダのハーグで300羽のムクドリが大量死したこともその根拠とされました。陰謀論者の主張を裏付ける科学的根拠は何一つありません。
「新型コロナウイルスは動物側から来ている」
筆者は免疫学の第一人者である大阪大学免疫学フロンティア研究センターの宮坂昌之招へい教授に取材するまで「中国人造ウイルス」説について記事にはしませんでした。ホントかウソか自分では判断できなかったからです。宮坂氏は筆者の取材に次のように答えました。
宮坂氏「かねてからSARSウイルスのスパイクタンパク質をコードする遺伝子領域を見ると、明らかに普通では考えられないような塩基配列があって、それがどこかのウイルスから持ち込まれたものではないか、従って、このウイルスは人造ウイルスではないか、あるいはどこかでつくったウイルスが漏れ出たのではないかということが言われ、3つぐらい論文が出ました」
「ところが、いやそうではないだろうという論文もあります。つい最近、アメリカのグループが調べたのですが、新型コロナウイルス感染症の患者さんから直接とってきた何種類ものウイルス、コウモリにいるウイルス、それからセンザンコウ(哺乳綱鱗甲目に分類される構成種の総称)にいるウイルスの塩基配列を全部比べてみると、やはり新型コロナウイルスに非常に近いものが、センザンコウにも、コウモリにもいるのです」
「いろいろな塩基配列の解析からすると、やはりこのウイルスはそちらの動物側から来ているということのようです。その動物の中で変異が起こったものが人に変異をしたのか、それとも、たまたま人にうつったものが、さらに人の中で変異をして、このように悪くなったのか。その区別はつきませんが、人造ウイルスという説は考えにくい。人造ウイルスが人にかかるだけでなく、コウモリにもセンザンコウにもかかったということは考えにくいですから」
「どちらの動物も海鮮市場にいたということを考えると、私は中国のあの近辺で発した可能性が一番高いと思います」
「一方、中国は、2019年10月末に武漢市で行われた世界軍人オリンピックにアメリカの軍人が来て、そのウイルスが持ち込まれたと言っています。もちろんそれがアメリカから持ち込まれたものだったら、アメリカはもっと早く、このウイルスの感染が勃発していないといけないわけです。アメリカでの流行は中国よりも2カ月ぐらい後です。そういうことを考えると、人造ウイルスがアメリカから来たという説は、科学的には非常に考えにくいと思います」
世界各地の研究機関が患者から採取した新型コロナウイルスの塩基配列データを投稿しているオープンソースプロジェクト「ネクストストレイン」に参加するトレバー・ベドフォード氏のツイートを見ると、新型コロナウイルスの塩基配列がコウモリに近いことが一目瞭然です。
系統樹の新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)のすぐ下にコウモリ(bat)やセンザンコウ(pangolin)とあるのがお分かりになると思います。しかし中国が全てのゲノム情報を公開しているかどうかについては今でも大きな疑念がくすぶっています。
ランセット誌に掲載されたMMRワクチンを巡るトンデモ論文
しかし何かの意図を持って都合の良い情報やデータだけを切り取って誇張して伝えるのは政治家やメディア、情報機関だけではないようです。
はしか、おたふく風邪、風疹予防の新三種混合(MMR)ワクチンは安全ではないという根も葉もないデマを撒き散らしたのは医師でした。1998年、イギリスの胃腸科医師アンドリュー・ウェイクフィールド氏は世界的に権威のある医学雑誌ランセットに次のような論文を発表しました。
自閉症の子供12人のうち8人の保護者が「MMRワクチン接種から数日間のうちに子供の様子がおかしくなった」と証言しているという内容でした。ウェイクフィールド氏は子供たちに大腸内視鏡や腰椎穿刺といった侵襲的な検査を実施した結果、ワクチン接種と自閉症、腸管障害の間には関係があると唱えたのです。
報道陣を集めて記者会見を開いたため、世界中が大騒ぎになりました。他の医師が論文をもとに研究してもMMRワクチン接種と自閉症の関係は再現できませんでした。
2004年になって英日曜紙サンデー・タイムズが、ウェイクフィールド氏がワクチン会社の損害賠償責任を立証するため落ち度を探していた事務弁護士から資金提供されていたことをスクープします。論文はデタラメだったと結論付けられ撤回され、ウェイクフィールド氏は医師免許を取り消されました。
しかし「MMRワクチンを接種すると自閉症になる」という迷信は今もソーシャルメディア(SNS)を通じて拡散し続けているため、草の根のワクチン不信が広まり、ワクチン接種率が落ちた先進国のイタリアやフランスで麻疹(はしか)が流行しました。
マスコミが当たり前になったワクチンの効用についてあまり書かなくなったことも一因だと思います。
当たり前のことを繰り返し書く
クロかシロか確証が取れない時は書くのを待つ勇気が必要です。どちらか分からない時には正しいと思われる方にウェートをかけて両論を併記するのが原則です。経験と勘に基づく伝統的なジャーナリズムは時に極めて情緒的、非論理的、非科学的で、陰謀論が大の好物です。
新聞記者を28年やってフリーランスのジャーナリストになって8年。読者のバッティングピッチャーを務めるつもりで記事を書いています。打ちごろの棒球をど真ん中に投げて、読者の方に気持ちよく打ち返してもらえたら100点満点と自己満足しています。
いま読者が一番関心を持っているのは何か、知りたいことに分かりやすく応えるためにはどうしたらいいのか、一生懸命考えています。陰謀論をことさら強調して伝えると、読者が時間を無駄遣いするだけでなく誤った判断をしてしまう恐れがあるので避けなければなりません。
編集者の中には「もっとPV(ページビュー)が出るようにエッジを立てて(極端に角度をつけて)書いて下さい」と露骨に言う人もいます。しかし専門知識のない人には、極端な意見を切り取って面白おかしく誇張して伝えるより、エビデンスや専門家の知見を重視して、できるだけ切り取って伝えない、誇張しないことが大切です。
読者のバッティングピッチャーに徹した結果、この8年近くで延べ約1億6000万人が筆者の記事を読んで下さいました。
どんなに慎重に取材しても間違う時もあるので出所を明示してリンクを張る、いろいろなデータをグラフにしたり表にしたりしています。フリーになってから記事を書く時に表計算ソフトを使うようになりました。写真もたくさん撮影するようになり、当たり前のことを繰り返し書くようにしています。
(おわり)