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黒人初の世界ヘビー級チャンピオン、ジャック・ジョンソンが白人の希望を打ち砕いた地

林壮一ノンフィクション作家/ジェイ・ビー・シー(株)広報部所属
試合のチケット。バス停の壁が小さな博物館のようになっている。     撮影:著者

 1996年8月から2010年の2月末日まで、私はネバダ州リノで生活した。当時、リノのダウンタウンを東西に走る4thストリートには、ドラッグの売人や売春婦がウロウロしていた。今でも安いモーテルが建ち並び、場末感が漂う。

 4thストリートの一角に廃棄物処理場がある。その場所で1910年のアメリカ合衆国独立記念日に、黒人初の世界ヘビー級チャンピオン、ジャック・ジョンソンと、元王者の白人、ジェイムス・J・ジェフリーズの試合が行われた。ジョンソンにとって、5度目の防衛戦であった。現在は、記念碑が建てられている。

撮影:著者
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 記念碑のすぐ傍にある市バスの停留所「スートロ・ストリート」には、ガラスの壁が風よけとして設けられ、歴史的一戦の資料がはめ込まれている。

撮影:著者
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 1910年7月4日、2年前に世界ヘビー級王座を獲得し、当時も防衛中だったジョンソンが、白人たちの大声援を受けた元チャンピオンのジェフリーズと拳を交えた。南北戦争終了から50年ほど後のことであり、黒人の人権など無かった時代である。

 1878年3月31日生まれのジョンソンは、10代でボクシングを始める。"試合"と称して非公式な殴り合いを何度も行っては収監された。

 白い肌を持つアイルランド系アメリカンのジョン・L・サリバンが、ベアナックルではなく、グローブをして殴り合うようになったボクシングにおいて、初の世界ヘビー級チャンピオンとして人気を集めていた頃だ。 

黒人初の世界ヘビー級王者、ジャック・ジョンソン   写真:Science Source/アフロ
黒人初の世界ヘビー級王者、ジャック・ジョンソン   写真:Science Source/アフロ

 1881年から1892年まで王座に就いたサリバンは「いつでも、どこでも、誰とでも戦う!」と公言したが、黒人ファイターに世界タイトル挑戦の機会は与えられなかった。

 サリバンを下して新チャンピオンとなったジム・コーベットも、次の世代の3名の王者たちーーー英国人のボブ・フィッシモンズ、ジェイムス・J・ジェフリーズ、マービン・ハートーーーも同様に、黒人選手との対戦を避けた。

 1906年2月23日、そのハートをKOしたカナダ人、トミー・バーンズが世界ヘビー級タイトルを獲得する。11度の防衛に成功し盤石王者とされたものの、3歳年上のジャック・ジョンソンを下さずに最強の称号は得られなかった。

 ジョンソンの挑戦を受けるなら、3万ドルのファイトマネー(※今日の約85万3000ドルの金額)を保証するとバーンズは口説かれ、ついにホワイト(バーンズ)vs.ブラック(ジョンソン)による世界ヘビー級タイトルマッチが実現する。1908年12月26日のことだ。

 結果は14回でジョンソンのノックアウト勝ち。それもレフェリーが試合を止めたのではなく、バーンズのダメージを考慮した警官がリングに飛び込んでのフィナーレとなった。 

バス停の壁が、黒人初の世界ヘビー級チャンピオン、ジャック・ジョンソンとは乙である 撮影:著者 
バス停の壁が、黒人初の世界ヘビー級チャンピオン、ジャック・ジョンソンとは乙である 撮影:著者 

 世は黒人チャンプの存在を、どうしても認めたくなかった。何とかしてジョンソンを王座から引きずり落としたい。そんな空気を察したジョンソンは、敢えて白人の娼婦を侍らせて公の場に姿を現し、アメリカ社会を挑発した。 

 白人層の期待を一身に背負って刺客に選ばれたのが、チャンピオンのまま無敗で引退したジェイムス・ジェフリーズである。

 世界ヘビー級タイトルを7度防衛し、23戦19勝(16KO)2引き分けの戦績で29歳でリングを降りたジェフリーズは、偉大なる白人の希望として担がれ、周囲の説得に押し切られる形でカムバックを承諾する。

 しかし、5年ものブランクがあり、チャンピオン時代のベストウエイトが225パウンド(102 kg)だったジェフリーズの体は、300パウンド(136kg)を超えていた。

撮影:著者
撮影:著者

 両者には、最低保証額として1万ドル(※今日のおよそ27万5000ドル)が提示され、勝利者は10万1000ドル(※今日の278万ドル強)のボーナスが支払われることとなった。

 当初、このファイトはカリフォルニア州サンフランシスコで行われることになっていたが、興行を打つことがあまりにも危険だと見たカリフォルニア州知事ジェイムス・ギレットの判断により、ゴングまで1カ月を切った6月6日に中止とされる。

撮影:著者
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 そこで名乗りを上げたのが、ネバダ州知事のデンヴァー・ディッカーソンであり、サンフランシスコから東へ220マイル(354km)の砂漠、リノの企業家たちだった。

 6月23日より、大量の木材を用いたコロシアムの突貫工事が始まる。雇われた建設労働者はおよそ300名。男たちは一日に10時間働き、会場を造り上げた。現場責任者は、労働者たちの士気を上げるため、ウイスキーを切らさずに振る舞った。

撮影:著者
撮影:著者

 1910年当時のリノの人口はおよそ1万2000であったにもかかわらず、ジョンソンvs.ジェフリーズ戦には、2万人以上の白人ファンが押し寄せる。また、9名のカメラマンが各々のアングルで試合を撮影した。

 『世紀の一戦』と題された同ファイトは、薄ら笑いを浮かべたジョンソンが、試合開始のゴングから自分のボクシングを見せる。ジェフリーズのパンチをブロックし、カウンターを放った。

 全盛期とはほど遠い動きながらも、チャンピオンに食らい付いていたホワイトの希望は第14ラウンドに鼻を骨折し、顔面を血で染める。翌15ラウンド、ジョンソンがジェフリーズを3度キャンバスに沈めたところで、セコンドが棄権を告げ、試合は終了した。

撮影:著者
撮影:著者

 ジャック・ジョンソンは周囲に味方が一人もいない状態で白人社会に乗り込み、拳を武器に闘い続けた男だった。

 ニグロリーグで平均的な選手でしかなかったジャッキー・ロビンソンが「どんな屈辱にも耐えられるから」と、黒人社会の代表としてメジャーリーガーとなったのが、1947年4月15日。

 デパートに勤務する洋裁工だったロサ・パークスが、アラバマ州モントゴメリーのバスで前方の白人専用席に腰掛け、後から乗って来た白人に席を譲れと言われて断り、逮捕されたのが1955年12月1日。この日を境に公民権運動がスタートし、黒人の人権が守られるようになっていく。

 その遥か昔に、ジャック・ジョンソンは己の体ひとつでブラックパワーを見せ付けたのである。

バス停名は「スートロ・ストリート」。右手に見える現在の廃棄物処理場にリングが作られた
バス停名は「スートロ・ストリート」。右手に見える現在の廃棄物処理場にリングが作られた

 同じキャッチコピーが付けられた、モハメド・アリとジョー・フレージャーによる『世紀の一戦』が催されたのは、ジャック・ジョンソンvs.ジェイムス・J・ジェフリーズ戦から、60年あまりが過ぎてからだ。

 今、廃棄物処理場を目にしても歴史的一戦のイメージは湧かないが、バス停の壁は多くを物語る。リノ市による心憎い演出だ。

ノンフィクション作家/ジェイ・ビー・シー(株)広報部所属

1969年生まれ。ジュニアライト級でボクシングのプロテストに合格するも、左肘のケガで挫折。週刊誌記者を経て、ノンフィクションライターに。1996年に渡米し、アメリカの公立高校で教壇に立つなど教育者としても活動。2014年、東京大学大学院情報学環教育部修了。著書に『マイノリティーの拳』『アメリカ下層教育現場』『アメリカ問題児再生教室』(全て光文社電子書籍)『神様のリング』『世の中への扉 進め! サムライブルー』、『ほめて伸ばすコーチング』(全て講談社)などがある。

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