【北アイルランド・ルポ】暴動に巻き込まれて亡くなったジャーナリスト その背景とは
英領北アイルランド第2の都市ロンドンデリーで、先月、29歳のジャーナリスト、ライラ・マッキーさんが暴動に巻き込まれて亡くなった。
数日後、カトリック系武装組織「新IRA」が犯行を認めた。
1960年代から30年以上続いた「北アイルランド紛争」では、英国への帰属維持か、あるいはアイルランドと統一するかで立ち位置が異なるプロテスタント系とカトリック系の住民が対立し、それぞれの武装組織「アルスター防衛軍(UDF)」や「アイルランド共和軍(IRA)」がテロ攻撃を繰り返した。紛争沈静化のために派遣された英軍は、自分たち自身が攻撃の対象となった。
3700人以上の犠牲者を生み出した紛争は、1998年のベルファスト和平合意で終結を見たものの、マッキーさんの死によって「まだ完全には終わっていない」ことを、改めて内外に知らしめた。
英国のEU離脱と北アイルランド
英国では、2016年にEUを離脱するか、残留加盟をするかについて国民投票が行われ、僅差で離脱派が勝利したことを受け、今年3月29日に離脱する見込みとなった。しかし、英下院がメイ政権とEU側が合意した「離脱協定案」を可決せず、現在、先の見通しが立たない泥沼状態に陥っている。
△経緯と現状については、以下をご参考のこと。
メイ首相とEUがまとめた離脱協定案が下院で3度にわたり否決された大きな理由の1つが、「北アイルランドの国境問題」だった。
先のベルファスト合意を受けて、北アイルランドとアイルランド共和国の間の国境検査は廃止されている。これがもしブレグジットで再来すれば、カトリック系住民とプロテスタント系住民との対立が激化し、それぞれの過激派組織がテロ行為に及ぶ危険性が出た。アイルランド政府、英政府、そして北アイルランドに住む人にとって、大きな懸念である。
北アイルランドの様子を主に治安や社会問題の観点から取材し、伝えてみたい。今回は、マッキーさんの銃撃事件を追ってみた。
ベルファストからロンドンデリーへ
筆者が住むロンドンから北アイルランドの首都ベルファストまで、飛行機では1時間半位だ。
距離的にはそれほど遠いとは思えないが、一旦ベルファストに来てみると、ロンドンは「外国」のように思えてくる。
一つの理由は英語の発音が独特であることだ。とても温かみのある発音なのだが、ベルファストに来てテレビやラジオで耳にするBBCのロンドン発あるいはイングランド地方発のニュースを聞いていると、北アイルランドで一般的に話されている発音とはだいぶ違う。ベルファスト市民にとって、親しみある声には聞こえそうにない。
また、ATMでお金を下ろすと、紙幣はアイルランド銀行が発行したものになる(この紙幣はロンドンに戻っても使えるが、小売店ではあまり歓迎されない)。
ロンドンからベルファストに来た場合、多くの旅行者が感じるのは、市民の気さくさ、親しみやすさに違いない。ベルファスト国際空港から市内中心部までのバスに乗ろうとすると、どの場所で待つのが一番いいのかを教えてくれたり、スーツケースを持つ自分に席を譲ってくれたり、「ほら、小銭が下に落ちたよ。拾いなさい」など声をかけてくれたりする人が多い。ロンドン市民も大きな荷物を持つ人に優しいが、北アイルランドの人々はさらに輪をかけて親切だ。
到着の翌日、筆者はロンドンデリーに向かった。高速バスに乗ると、丁度2時間で到着する。
旗と壁画
マッキーさんが銃弾に倒れたのは、ロンドンデリーのクレガン・エステートと言う場所だ。貧困家庭が多い地域だと言う。
ロンドンデリーの高速バスターミナルから、クレガンに向かって歩いた。
数分歩くと、大きな壁画があちこちに見えた。アイルランド共和国の旗が風を受けて揺れ、カトリック系過激主義の民兵組織「IRA」と壁に書かれた場所もあった(ここにIRAの人がいる、という意味ではなく、IRAへのシンパを示すものだろう)。標識には英語とともにアイルランド語が書かれている。紛れもなく、ここはカトリック住民が住む地域だ。
筆者が初めて北アイルランドを訪れたのは2003−04年頃だが、プロテスタントおよびカトリック住民のそれぞれが自分たちの縄張りであることを示す旗を掲げ、壁画で自分たちの思いを表現する様子を見て、衝撃を覚えた。
壁画の多くがそれぞれの住民が心を寄せる過激組織を讃えるものであったため、暴力的なイメージが伝わってきた。異なる宗派間の対立心をここまで外に出していたら、「和解」は難しいだろうと思ったものだ。
旗や壁画を見ながら、毎日学校に通い、帰宅する子供たちは、異なる宗派の住民を敵視するようになるのではないか、と。
北アイルランドの外からやってきた自分の勝手な衝撃だったかもしれないが、今回もやはり、「ここで育つ子供はどうなるだろう」と思いながら、クレガンまでの道を歩いた。
途中で、道の両側に花屋があった。右側の花屋に行こうと足を進めていたが、左側の花屋の主人と目があってしまい、道を渡ってバラを一輪買った。
「休暇ですか?」と聞いている。亡くなったジャーナリストの件で、というと、「あの時はたくさん人が来て、大変だったらしい。自分は旅行中でいなかったけどね」と主人は言う。「じゃあ、行ってらっしゃい。後すぐだよ」。
実はそれほど「すぐ」でもなかったが、坂道をさらに歩き、「デイセンター」の近くだと聞いていたので辺りを見回していたら、花束がたくさん置かれている様子が遠くに見えた。
マッキーさんが亡くなってから、ほぼ1ヶ月になっていたので一部の花の色が褪せていた。マッキーさんの母親や姉が思いを手書きで綴ったカードが、電柱にくくりつけられていた。
花束の山は丁度民家の真ん前にあり、坂道を登ってきた女性がこちらをチラッと見てから、家のドアを開けて、バタンと閉めた。
なぜここで暴動が起きたのか?
マッキーさんが新IRAの銃弾を受けて亡くなったと聞いた時、頭に浮かんだのは、「なぜ『暴動』を取材中だったのか、そもそも暴動はなぜ起きたのか?」という疑問だった。
報道によれば、暴動は地元警察がカトリック系武装組織から武器弾薬を没収するために捜査したことがきっかけだった。
1916年、「イースター(復活祭)蜂起」(英国から独立して共和国の結成を目指したアイルランドの共和主義者の人々による武装蜂起)が発生したが、ロンドンデリーではこれを記念する行進が行われることになっており、4月18日、警察は暴力行為を未然に防ぐ目的で、武器弾薬が隠されていると当局が踏んだいくつかの地域を捜査した。
その1つがクレガン地域だった。捜査を不当と見なす地域のカトリック住民らが警察に対する攻撃を開始した。若者たちが火炎瓶を警察に向かって投げつけ、駐車していた車の2台に放火した。暴動が続く中、午後11時ごろ、男たちが警察に向かって発砲した。
警察の装甲車の近くに立って暴動を取材していたマッキーさんは頭部を撃たれ、病院に運ばれた後、亡くなった。
長い間、カトリック住民にとって、かつてはプロテスタント住民が圧倒的だった警察や、住民同士の暴力行為を沈静化するために英国本土から派遣されてきた英軍は「敵」だった。
北アイルランドの警察は以前、「王立アルスター警察隊(Royal Ulster Constabulary)=RUC」と呼ばれていた。カトリック住民の間ではRUCはプロテスタント系武装組織と癒着していると言う噂が絶えず、不信の象徴となった。
2001年、RUCは「Police Service of Northern Ireland=PSNI」(北アイルランド警察)として再出発した。
北アイルランド紛争では、RUCの警察官を含む関係者が300人以上殉職し、9000人が主としてカトリック武装組織により負傷させられた。
北アイルランド紛争のレベルではないとしても、何かのきっかけがあれば、一触即発で暴動が発生し、火炎瓶や弾丸が飛んでくる。このような状況が今も存在していることが、マッキーさんの死亡事件で改めて浮き彫りになった。
クレガンでの警察とカトリック住民との対立を彷彿とさせる事件が、今月も発生している。
17日、東ベルファストの複数の場所で現金自動支払機が攻撃され、現金が窃盗された事件があったが、警察は犯人と思しき人物が住むと思われる民家を捜査。しかし、ここは窃盗事件には全く関係のない住民の家だった。また市民の怒りを買う事件となってしまった。
マッキーさんとは
マッキーさんは1990年3月、ベルファスト生まれ。
カトリック系のセント・ジェンマ・ハイスクールに通っていた14歳の時に学校新聞に原稿を書き出した。ジャーナリストとしての人生が始まった。のちにバーミンガム・シティ大学でオンライン・ジャーナリズムを専攻し、修士号を取得している。
北アイルランド紛争の影響をテーマの1つとし、ニュースサイト「メディアゲイザー」の編集者であるとともに、ベルファスト・テレグラフ紙をはじめとする複数のメディアに寄稿した。
マッキーさんの名前が広く知られるようになったのは、2014年に書いたブログの投稿がきっかけだ。
投稿には「14歳の自分へ」という題名がついていた。14歳当時、同性愛者であることで苦しんだ自分の経験を語った内容だ。11歳で自分が同性愛者であることを知ったマッキーさんは、友人たちからいじめられ、性的指向を隠しながら生きた。この体験はのちに短編映画にもなった。
アイリッシュ・タイムズ紙の取材の中で、マッキーさんは「同性愛者の自分をどうか地獄に送らないで、と神に祈った」と話している。マッキーさんは、21歳の誕生日に、家族に自分が同性愛者であることを告げた。
亡くなる直前には、1981年に「暫定IRA」によって殺害されたロバート・ブラッドフォード下院議員(アルスター統一党)について書いた本「Angels with Blue Faces」が出版されるところだった。
マッキーさんの著作は高く評価され、アイリッシュ・タイムズ紙が選んだ「アイルランドの新進スター30人」の中にその名前が入ったばかり(2019年3月)。
パートナーはロンドンデリーの病院に勤める女性の看護師セーラ・カニングさん。彼女と暮らすために、ロンドンデリーに住むようになった。
平和を願う追悼セレモニー
マッキーさんの死からほぼ1ヶ月となった17日。
ロンドンデリーでは午後7時半から、クレガン地区にあるセントメリー教会のミサにマッキーさんを追悼する祈りが加えられ、午後8時半からは「平和の炎」広場で友人らの集いが行われた。
広場の中央にあるのが、平和の炎のオブジェだ。その上部には、途切れることなく「炎」が灯る。2013年、カトリックとプロテスタントの生徒たちが炎のガスのスイッチを入れたという。オブジェはオランダのデン・ハーグに拠点を置く慈善団体「ワールド・ピース・フレーム財団」の支援の下で建造され、米国の公民権運動の指導者キング牧師の息子マーティン・ルーサー・キング氏がオープニングに立ち会った。炎は平和、統一、自由、祝賀を象徴している。
午後8時半少し前、マッキーさんのパートナー、カニングさんも含めた友人たちや支援者が広場にやってきた。イベントの開催はベルファストの新聞やラジオで告知されており、一般市民や報道陣も少しずつ集まってきた。
「ライラ(・マッキー)は平和を何もよりも願っていました」。友人たちの代表が話し出す。
ロンドンデリーは「血の日曜日事件」(1972年、カトリック住民による公民権デモに対する英軍兵士の発砲で13人が死亡。後に1人が死亡し、死者は14人に。これを機に北アイルランド紛争が激化した)が発生した場所だ。
そして、実は、このデモの開始地点はクレガンだった。
北アイルランド紛争の犠牲者とマッキーさんの死が重なる。
「黙祷しましょう」。その場にいた人々が下を向き、沈黙の時が流れた。
黙祷の後の短い演説が終わると、市民らはカラフルな紙にマッキーさんへのメッセージを書いた。そして、一人一人が、メッセージを書いた紙についた紐を木の枝にくぐらせた。友人たちが垂れ幕を手にして並ぶと、地元メディアのカメラマンがシャッターを次々と切った。
友人の一人、カリーさんにマッキーさんはどんな人だったか、聞いてみた。
「どんな宗派のどんな社会階級の人とも、分け隔てなく話す人だった。会話では、一発決める言葉を締めに言う人だったな」。
カリーさん自身は小柄な人で、「私と同じぐらい、小柄な人だったのよ」。いつも仲間で集まっては話したり、笑ったりしていたと言う。
「もう4週間経ってしまった。明日は亡くなってから、1ヶ月。すごく辛くなると思う」。
若い男性が隣にいた。高校生ぐらいと思ったが、シェイマスさんは、「もう19歳です」と笑いながら答えた。
北アイルランドに来ると、それぞれの宗派を代表する壁画が目に付く。銃を手に持つ過激派武装集団を描く壁画は、若い人から見たら、どうなのか。攻撃的な気持ちを培うことになりはしないだろうか、と聞いてみた。
「実は僕は10代の少年たちを対象に、武器を手にする道に走らないようにするための講座を開いている」と言う。
また、暴力を賞賛するような壁画は「一切無くした」と言う。私自身は「すべてなくなった」とは思えなかったが、少し見て回っただけでも、確かに環境保全や若者の未来を描くような壁画が時折目についた。「暴力的な壁画は必要ない」とシェイマスさん。
実は、北アイルランド自治政府は暴力を奨励するような壁画を2030年までに全廃する方針を決めている。ただし2017年以降、北アイルランド政府は機能停止となっており(カトリック系、プロテスタント系政党が連立政権を構成してきたが、エネルギー問題、アイルランド語を教育課程に入れるか入れないかなどで意見が合わず、政権が崩壊)廃止作業が止まっている可能性もある。
シェイマスさんのような若者がいることを知って、筆者は救われた思いがした。
25日から27日まで、ウオーキングイベント
マッキーさんの友人たちは、25日から27日の3日間、ベルファストからロンドンデリーまで歩く「Lyra's Walk」というイベントの開催を予定している(フェイスブックでの情報はこちらで)。参加費は無料。
夜はキャンピングをしながら、ロンドンデリーまで歩くイベントだが、1日だけあるいは数時間など自分ができる範囲での参加も可能だという。