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誤解だらけの「106万円の壁」

中田大悟独立行政法人経済産業研究所 上席研究員
(写真:イメージマート)

厚生労働省社会保障審議会年金部会での議論を受けて、厚生労働省は厚生年金の適用の収入基準の見直しに着手しました。この見直し自体は、突然決まったものではなく、長らく議論されてきたものです(令和7年度の制度改正に向けては、令和5年5月の年金部会において議題に取り上げられ、その後も継続的に議論されています)。

議論の方向性が固まってきた時期が、国民民主党が総選挙での公約に掲げた手取り所得の増大(基礎控除等の見直し)に衆目が集まったタイミングと重なってしまったため、世論がやや過熱気味の様相を呈しています。

しかしながら、議論の中には誤解や錯誤に基づくものも散見されます。ここでは、制度の基本的な説明を通して、皆さんの理解を深められればと思っています。

103万円、106万円、130万円、みんなちがって、みんないい

現在、議論されている「壁」は、どれも「収入が上がると、税や社会保険料を課せられるようになる」という話で共通しています。よく取り上げられるのは、「103万円の壁」「106万円の壁」「130万円の壁」です。

  • 「103万円の壁」は所得税の課税が開始される年収の水準
  • 「106万円の壁」は社会保険の適用が開始される年収の水準
  • 「130万円の壁」は被用者の社会保険における扶養の有無が判断される年収の基準

というのが一般的な理解です。ただ、面倒なのが、これらの金額で表記される年収の定義が全て異なっているということです。

「103万円」は、基礎控除と給与所得控除の合計額と理解されていると思います。年収がこの水準を上回った部分について、所得税が課税されます。この場合の年収とは給与収入から非課税手当(通勤手当など)を差し引いた金額のことです。

「106万円」は、現行制度における被用者保険適用基準が、月の収入で8.8万円となっていることに由来します。8.8万円を12(ヶ月)倍して105.6万円ですが、これを四捨五入して、切りの良い数として「106万円」と呼ばれています。この賃金要件で重要なのは、これが指すのは基本給のことだということです(厳密には地域手当などが入りますが、概ね基本給です)。この基本給は、みなさんが勤め先と交わしている雇用契約書に記載されている賃金の月額のことです。更に重要なのは、この基本給には、通勤手当、家族手当、時間外手当、休日手当などの諸手当やボーナスの金額が含まれていないということです。したがって、勤め先で社会保険の適用になるかどうかは、この雇用契約の段階で決まることになります。後述するように、現在の基準では、勤め先の規模(従業員50人超)、週20時間以上勤務、月の基本給8.8万円以上であれば社会保険の適用対象です(厳密には学生は除外されます)。また、残業や休日出勤などが重なって月の収入が8.8万円を超えたからといって、それが即、社会保険適用につながるわけではありません。報道などで、年間106万円の収入を超えそうだからパート労働者に勤務してもらえなかった、ということが報じられることがありますが、それは制度への誤解に基づく行動です。雇用契約書に明記された基本給が8.8万円以下であるならば、残業や出勤日数の変動で発生した短期的、追加的な給与所得が問題となることはありません(継続的な超過が見込まれる場合は問題となります)。

「130万円」は、配偶者(多くは夫)の勤め先の被用者保険において加入者(つまり配偶者)の被扶養者として認定されるかどうかの年収基準ですが、これは前述の「103万円」とも「106万円」とも異なるものです。まず、収入の範囲としては、「106万円」で用いられた基本給、諸手当、ボーナスに加えて、事業収入、配当収入、不動産収入などを全て含めて算定します。つまり、これまでの「壁」の中で最も広範な年収の定義となっています。また、前述の「106万円」では雇用契約の基本給が重要でしたが、「130万円」の場合、認定時点から1年間の年収見込がカウントされます。例えば、無職者が年末の12月に正規労働者として就職して基本給20万円となった場合、年間の収入が20万円ですが、この就職時点から1年間で20万円×12(ヶ月)で、240万円とみなして、配偶者の社会保険の被扶養者からは除外するということになります。ここで注意が必要なのは、上述の「106万円の壁」を満たすようにパート先で勤務していたとしても、副収入や諸手当等を含めて130万円を超えることが見込まれる場合には、配偶者の加入保険の被扶養者にはなれないということです。

現在、議論されていること

さて、今、社会保障審議会年金部会で議論されているのは、以下のようなことです。現行の制度では、被用者が厚生年金の適用となるには、以下の4つ全ての条件を満たす必要があります。

  1. 週の所定労働時間が20時間以上
  2. 賃金が月額8.8万円以上
  3. 勤務先企業の従業員50人超(もしくは適用業種の5人以上個人事業所)
  4. 学生ではない

これらの条件について、2の賃金要件は削除、3の企業規模要件については撤廃緩和を検討するということです。

これで何が変わるのか

賃金要件(8.8万円)については、現在の最低賃金(全国加重平均1,055円)の水準で、週20時間、年間通して働くことを基本給の水準と想定した場合、月額8.8万円を概ね超える賃金となります。最低賃金の低い地域の水準で考えた場合であっても月額8.8万円にかなり近く、今後の最低賃金の引き上げ見通しを考えれば、8.8万円はあまり意味のない基準ということになります。したがって、ここを変更したところで、大きな変化が生じるというわけではありません。賃金要件が労働時間要件と実質的に一元化されるというのが実態です。

大きな変化となるのは企業規模要件の撤廃緩和であろうと思われます。現段階では、この企業規模要件をどこまで絞り込むのかは、確かな報道がないため何とも言えませんが、例えば5人以上の企業・個人事業所について適用拡大するということがあれば、90万人程度の被用者が新たに制度加入することになります。被用者個人の責任ではない勤務先の企業規模という要件で老後の所得保障に差が生じることは、本来望ましいことではありませんから、この問題が一部解消されることになります。

誰がどのような変化に直面するのか

さて、「106万円の壁」撤廃の方針に対して、大きな批判のポイントとなっているのは、新たに適用となった被用者の手取り収入が減少するということです。もちろん、厚生年金保険料納付による手取り減少は将来の年金給付の増額に直結しているので、それ自体が損であるとはいえませんが、短期的な手取り減少が興味関心の的となっているのが現実です。では、どのような人が制度変更で手取り減収となるのでしょうか。

もちろん、独身であれ、夫婦共働きであれ、現時点でフルタイムとして働いて正規労働者として被用者保険制度に加入している世帯については、特に変化が予想されるわけではありませんので、次期制度改正で変化に直面するのは、制度変更の境界線で働いているような人たちということになります。

配偶者(多くは夫)が加入する被用者保険の被扶養者となっていて(つまり年収が130万円以下ということ)、従業員50人未満の企業で週20時間以上勤務している労働者が、その雇用契約を変えなければ手取り収入が減少する可能性が高いでしょう。この場合、将来に増える厚生年金給付をどのように評価するかが重要になってきます。

独身者が従業員50人未満の企業で週20時間以上勤務していた場合、それまで個人として国民年金に加入していたはずですので、新たに発生する厚生年金保険料とこれまで納めてきた国民年金保険料の比較で手取りの増減が決まるはずです。特に、厚生年金保険料負担額を労使折半額と考えた場合、最低賃金水準で週の所定労働時間が20時間を超えるところで16,980円(令和6年)の国民年金保険料が8,052円の厚生年金保険料に変わります。したがって独身の低所得の新規加入者の手取りはむしろ増えることになります(労使合計額とした場合は16,104円とほぼ同額)。

最近の議論の焦点は、主として扶養配偶者(第3号被保険者)のいる厚生年金加入者世帯の手取りの増減の是非に集中していましたが、新規の適用加入者の属性次第で様相は変わっていきます

また、先に述べたように、配偶者が加入する被用者保険の被扶養者となっている労働者が、新規の適用を避けるために週の所定労働時間を19時間に抑えたとしても、時給が約1,340円以上にあがったり、諸手当や賞与、副収入などを得て年収が130万円を上回った場合には配偶者の扶養を外れることになります。どうしても配偶者の扶養の範囲内に収まりたいという人は、さらに労働時間を削るなどする必要がありますが、そこまでして低所得に抑えたほうが良いのか、むしろ労働時間を増やして老後の年金給付を含めて所得を増やした方が良いのか、よく考える必要が出てくるものと思われます。

よく考えよう

現実の税・社会保障制度は少々複雑であって、現在議論されているような厚生年金の適用拡大であってもその影響の現れかたには様々なものがあります。現在は「106万円の壁」を巡って、かなり粗っぽい議論も散見されます。単純化された議論はわかりやすいものですが、ともすれば理解を誤らせる可能性があります。一旦落ち着いて、制度をよく理解した上で、なぜ政府がこのような制度改正を考えているのかを考えてみるのも良いのではないかと思います。

独立行政法人経済産業研究所 上席研究員

1973年愛媛県生れ。横浜国立大学大学院国際社会科学研究科単位取得退学、博士(経済学)。専門は、公共経済学、財政学、社会保障の経済分析。主な著書・論文に「都道府県別医療費の長期推計」(2013、季刊社会保障研究)、「少子高齢化、ライフサイクルと公的年金財政」(2010、季刊社会保障研究、共著)、「長寿高齢化と年金財政--OLGモデルと年金数理モデルを用いた分析」(2010、『社会保障の計量モデル分析』所収、東京大学出版会、共著)など。

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