MLB球団と契約した高卒野手第一号が語るマイナーリーグの現実
今年のドラフトを前に「田澤ルール」が撤廃された。
「田澤ルール」とは、12年前、ドラフトの目玉だった田澤純一投手が日本のプロ野球・NPBのドラフト指名を拒否し、レッドソックスと契約したのを受けて、アマチュアのプロスペクトの国外流出を阻止すべく、ドラフト指名を拒否して国外プロリーグと契約した者について、帰国後一定期間は、ドラフト指名を控えるというもので、日本球界の閉鎖性を具現化したものとしてしばしば批判の的となっている。
今回、その田澤投手が、MLB球団を解雇され、日本の独立リーグ、ルートインBCリーグでプレーすることになったタイミングで、「田澤ルール」が撤廃されたのだが、この背景に、現在のMLBのルールでは、MLBドラフトの対象外である「国外アマチュア選手」は、メジャーリーグでのプレー不可能なマイナー契約から始めることとなっており、NPBドラフトで上位指名を見込めるような選手が、マイナーの厳しい条件で海を渡ることは考えにくいとNPBが判断したことがあるのではないかと言われている。俗に「ハンバーガー・リーグ」ともいわれるMLBのファームリーグの現実はいかなるものなのか。20年以上前にそこでプレーした元選手に聞いた。
甲子園制覇からのメジャー挑戦
「メジャーリーグにはもちろんあこがれはありましたよ。でも現実的な目標というわけではなかったですね」
と当時を振り返るのは、川畑健一郎さん、41歳だ。現在、医療機器の販売会社を経営する彼は、1997年春の甲子園を奈良県勢として初めて制した天理高校のメンバーだった。続く夏の甲子園にも出場したものの、1回戦敗退。すでに東京六大学への進学も決まり、寮を出て、高校最後の夏休みを大阪郊外の実家で過ごしていたところに一本の電話が鳴ったのが始まりだった。
「ちょうど携帯を持ち始めた頃で、友達同士でいたずら電話をして遊んでいたんです。だから、誰かが実家にまでしてきたのかと」
甲子園優勝メンバーと言っても7番打者。プロへの志望はもっていたが、スカウトの注目を浴びていたわけでもなかった。悪友のいたずらに違いないと適当にあしらったが、数日後、たどたどしい日本語を話していた電話の向こうの男が、本当に訪ねてきた。高校野球の選手名鑑にあった50メートル走5秒6という数字がスカウティングの決め手だったらしい。
「本当は5秒8だったんですけど(笑)」
ことを察した川畑さんは、高校の監督に連絡をとり、大学に推薦入学の断りを入れてもらった。そして11月末、日本の高校からMLB球団と契約した初めての野手として、ボストン・レッドソックスに入団した。
翌1998年3月、海を渡り、フロリダ州フォートマイヤーズのキャンプに参加した。200人を超える大所帯。メジャーリーガーたちが開幕に向けて調整するメイン球場を眺めながら、その周囲にいくつも広がるスタンドのないサブフィールドのひとつで川畑さんはプロ生活の第一歩を踏み出した。練習後、そのメイン球場のスタンドから眺めるトップチームのオープン戦に、自分がMLB球団に身を置いていることを実感した。4月を迎えると、所属選手たちは、メジャーを筆頭にランク分けされた傘下のマイナーチームに振り分けられ、全米各地に散らばっていくが、ビザ取得の関係でキャンプへの合流が遅れたこともあり、川畑さんは、延長キャンプに振り分けられ、そのまま6月開幕のルーキーリーグでプレーすることとなった。
マイナーリーガーには公式戦中しか報酬は支払われない。キャンプ施設で行われるルーキーリーグの期間はたった2ヶ月。月給は日本円にして10万円ほどだった。ホームゲームでは、試合前後に軽食が用意されるが、日帰りの遠征の際は、パサパサのパンに、ターキーの胸肉を挟んだだけのサンドウィッチだった。閉口しながらいつもマヨネーズとケチャップを思い切りつけて口に運んだ。球団が用意してくれたホテル住まいの中、キッチン付きの部屋にいたコーチが時折ふるまってくれた手料理がごちそうだった。
遠かったメジャーリーグ
「エンジンが違いましたよ」
マイナー最底辺のリーグを川畑さんはこう振り返る。技術的には、日本の高校野球トップでプレーしていた川畑さんの方がはるかに上だったが、中南米から集められた選手たちは、身体能力が違った。
2年目もルーキーリーグのままだったが、定位置を奪取し、チームの首位打者に輝いた。賞品は壁掛け時計とメジャー球団の本拠、フェンウェイパークでの公式戦への招待だった。
シーズン終了後、ボストンへ飛び、試合前に他のファームのプロスペクトたちと表彰を受けた。VIP席からスターたちの雄姿を見たはずだが、それはあまり覚えていないという。川畑さんにとって、メジャーが一番近づいた瞬間だったはずだが、すでに自身の意識の中からは、メジャーの舞台は消えていた。
「もう1年目のシーズンが終わった後には、無理だなって思っていました」
それでも、帰国後、日本の高校からメジャー球団と契約した初めての野手の「凱旋」にメディアが殺到した。地元テレビ局はドキュメンタリーの特集を組んだという。若干19歳。天狗にならないはずはない。しかし、肩で風を切りながら、内心では、周囲が期待するメジャーの舞台が自分の届くところにないのをすでに感じ取っていた。
「プレーそのものっていうより、アメリカの生活や習慣を受け入れるのに10代は若すぎったってことです」
高校までの寮生活から、いきなりの異国での生活。野球以前の問題だった。話し相手が欲しくても日本語を解る相手もいない。いつクビになるかわからない環境で、選手たちはささくれだっており、チーム内での喧嘩は日常茶飯事。それは、10代の少年にとって、野球に没頭できる環境ではなかった。
プレーより大事な「適応性」
「変な話ですけど、今になって思えば、メジャーに上がることはできたと思いますよ」
レッドソックスには4年在籍した。3年目にはメジャーリーガー予備軍が集まる2A一歩手前のA級フロリダステートリーグまで昇格したものの、翌年は、アメリカではプレーさせてもらえず、提携先のメキシコのチームに送られた。
「3年目のA級でフロリダからワンランク下のオーガスタというチームに落とされたんです。ここでポジションがかぶっていたのが、後に阪神でプレーするルー・フォードでした。僕は、上のクラスから落ちてきたんで、試合に出れるかなと思っていましたが、彼がいたので控えになってしまいました。その彼が数年後にはメジャーで3割近く打ったことを考えると、自分にもそれは可能だったと思いますね」
それでも他人ができないスペシャルな「マイナー経験」
レッドソックスとの契約が切れた後、川端さんはアメリカの独立リーグや日本のクラブチームでプレーした後、現役を退いた。
甲子園優勝から東京六大学という「レッドカーペット」から先の見えない「メジャー挑戦」という進路変更に「無謀だ」と翻意を促す大人も多かったという。結末はその大人たちの言葉通りになってしまったかもしれないが、川畑さんは、海を渡ったことを後悔はしていない。
「よかったと思いますよ。他の人が見ることができない景色を見ることができましたから。実のところ、高校時代から野球を惰性でやっていた部分もあったんです。それでアメリカで野球したら、楽しめるかなっていう気持ちでレッドソックスと契約したのかもしれませんね。実際行ってみて、マイナーは想像以上に厳しい世界でしたけど。やっぱりいつクビになるかわからないっていう環境では、落ち着いて野球できませんでしたね。
アメリカでは最後、独立リーグでプレーしたんです。ここでは、クビになる心配がほとんどなかったので、のびのびプレーできました。最後に野球を楽しめました。今、独立リーグにはたくさんの日本人の若者が挑戦しているようですけど、独立リーグからメジャーなんて、絶対無理です。それでも、行きたい人は行けばいいと思います。人生の上で、貴重な経験になるでしょうから」
現在、川畑さんは本業の傍ら、大学などで自身の「スペシャルな経験」を講演するなどしている。