俳優とは?演技とは?英国映画協会が認めた日本映画「王国(あるいはその家について)」の世界
英国映画協会(BFI)が2019年の優れた日本映画の1本に選出
草野なつか監督の長編2作目「王国(あるいはその家について)」は、おそらくジャンル分けするとしたら実験映画とされるのだろう。
出版社に勤めるも現在休職中の亜希、小学校から大学まで彼女とともに時間を共有してきた幼なじみの野土香、野土香の夫である直人という人物が主要人物として登場。亜希を澁谷麻美、野土香を笠島智、直人を足立智充がそれぞれ演じている。
ただ、通常の劇映画のようにひとつの物語が展開していくわけではない。通常では表に出ることのない役者の繰り返される本読みやリハーサルが収められた本作は、役者がひとつの役を体得していく過程とともに、ひとつのフィクションの映画が完成するまでをつぶさにみつめ、その先にフィクションとドキュメンタリーの境界線を軽々と飛び越えた世界が広がる。
役者の生身というノンフィクションが演技というフィクションに昇華されてより真に迫ること、フィクションの場が実は無数のノンフィクションによって構成されていることなど、映画、役者、演技の根源に迫ろうとする一方で、各々の中にある可能性を見出そうとした痕跡がみてとれる。
その作品は国内の映画祭はもとより海外でも注目を集め、英国映画協会(BFI)がリスト化した「1925~2019年、それぞれの年の優れた日本映画」では、2019年の1本として選出されている。本作を手掛けた新鋭、草野なつか監督のインタビューを2回に分けてお届けする。
脚本は濱口竜介監督の「ハッピーアワー」などを手掛ける高橋知由
まず、この作品の出発点を草野監督はこう語る。
「2014年に初長編『螺旋銀河』を完成させて、第11回SKIPシティ国際Dシネマ映画祭のSKIPシティ・アワードと監督賞を受賞しただけではなく、運良く翌年には劇場公開することができました。
ただ、私は一度にいくつものことを進めたりすることができない性格で。初めての公開でもあったので、けっこう『螺旋銀河』につきっきりになってしまった。体も精神的なところも含めて全部。
だから、その間はなかなか次に何を撮るのか考えられないでいたんですね。もちろん今後も撮り続けていきたいとは思っていたんですけど。
それで名古屋の上映のとき、シネマテークの方と好きな映画のことなどいろいろと話していたときに、愛知芸術文化センター・愛知県美術館が続けている『身体』をテーマにしたオリジナル映像作品に企画を出してみたらどうかと。
それでやっと次のことを考えることができて、すぐに企画を考えたら、トントン拍子で決まってしまって、2017年に64分版ができて、さらに編集を加えて2018年に今の150分版が完成しました」
脚本は、「最後の命」「ハッピーアワー」などを手掛け、「螺旋銀河」の脚本家でもある高橋知由が担当している。
「まずテーマとして『身体』があるのですが、そのとらえ方は自由で。身体からめちゃくちゃ離れてもよければ、めちゃめちゃ近づいてもいいということだったので、とりあえず、自分に興味がある『身体』って何だろうと考えました。
そのとき、思い浮かんだのが『螺旋銀河』のことで。実は、自分の中で、突き詰められなかったことがあった。それは役者の身体の変化で。自分の演出が俳優たちに足りていたのか、不足はなかったのか。やりきれなかったのではないかという気持ちがずっと自分の心の中に残っていたんです。
そこで、まずは、俳優の身体の変化をひとつ軸に置きたいと思いました。それは、演出ときちんと向き合う時間にもなるだろうと。
加えて並行して考えたのがストーリー的なことで。そのとき、ひとつ撮りたいと思っていたのが、子どもと親の関係といいますか。ここ最近、親が子を殺める悲惨な事件が相次いでいる。家庭という閉鎖された、外から見えない空間になったときに、人の身体にはどんな変化がおきるのかを考えたいと思いました。
この2本の軸をどうやってつなげるかというところから、高橋君とは話し始めて。ちょっと記憶が定かではないのですが、ベースの部分は私が持っていって、その2つの軸をつなげるところまでは自分で考えました。でも、そこからは高橋君にほぼお願いしてしまって、ストーリー中の細かいディテールやアイデアはすべて彼のものです。
セリフもほとんど高橋君のもの。それがすごいおもしろかった。自分からは絶対出てこない。
高橋君からは『すべてお任せになるのなら、はじめからちゃんと言ってね』と怒られました(苦笑)。
話をうまく味つけするとか、整合性を持たせるとか、そういうのがすごく私は不得意で、困ったものなのですが、そこをすべて高橋君が担ってくれてほんとうに助けられました。
ただ、実際に現場に入って撮影に入ると、いくつも選択を迫られるわけですが、そういう場面にぶつかったとき、自分の考えたことが出発点になっているので、自身の意思に立ち返って決めることはできた。
だから、ほとんど高橋君の脚本ではあるんですけど、自分のものとして接することができた。私の場合、自分の身体に入っていて、そこから出たものでないと現場での在り方が全然変わってくる。テーマや主題に対して、誰かに入ってもらうことでようやく客観性が保てるところがある。そういう意味でも、自分の考えを伝えて、誰かに書いてもらうというのが私には必要なんだなと痛感していて、高橋君には感謝しています」
この映画は「本番」のない映画
この脚本をもとに作品は構成されていくのだが、その撮影手法は独特としかいいようがない。まず、リハーサルをリハーサルとして撮っているのか、本番を想定して本番を撮ったのか、その撮影スタンスははっきり言うとわからない。
役者の変化のすべてをつぶさにとらえ、ドキュメンタリーのように撮っているようにも見えれば、実はすべてガチガチに固めて、ひとつの芝居を撮るようにフィクションとして撮っているようにも映る。
ドキュメンタリーとフィクションの境目とでも言おうか。ここはフィクションパート、ここはドキュメンタリーパートと区別もなく、すべてを等価で撮っているようなところがある。
草野「ご指摘のとおり、ほんとうにすべてを等価に撮っていましたね(笑)。ただ、そうなったのは偶然といいますか。
この映画は、いうなれば本番のない映画。いわゆるディレクターズ・カットとなる本番のテイクにむけて、どう役者たちは芝居を作り上げていって表現していくのか、そのときどのような肉体的な変化があるのか、に焦点がある。映画において一番必要な最終的なOKテイクはいらない。そこに行き着くまでの途中にあるテイクがOKテイクになるという特殊な映画で(苦笑)。
こう今は説明できてますけど、そうしたビジョンがはじめからあったわけではありません。撮影していく中で気づいたんです。当初は、リハーサルをする中で、最後、終盤に用意された手紙を朗読するシーンを迎えたとき、俳優たちにどういう身体の変化が起こるのかといったことをおぼろげながら考えていました。
で、リハーサルの初日、はじめに全シーンをリハーサルしようと思いました。でも、よくよく考えると、『単なるリハーサルごっこになっちゃって意味がないのでは?』という疑問が頭に浮かびました。この作品は、通常の映画のように本読みして、芝居を固めていくようなリハーサル風景を撮りたいわけではない。リハーサルや相手の役者とのやりとりを重ねることで、どう演技の質や役者の肉体が変化するのかに主眼はある。
ならばキーポイントとなる登場人物の関係性が変わるシーンや、物語が転換するシーンなどを抽出して、そこを重点的に繰り返し繰り返し演じてみたほうが主眼に置いたことをつかめるのではないかと(笑)。来たる本番に向けて積み重ねていくことでどんな変化が起きるのか、もしくはほんとうに変化するのか、その変化は果たして正しいのか、をつぶさにみていくことが重要ということに、はたと気づいた。
ただ、本番のない映画を、少なくともそのとき現場にいた人間は誰も撮ったことがない。だから、そう方向性が見えても手探り状態(笑)。そんな状態のまま進めていったんですね。ある意味、すべてを等しくフラットに見ていくしかなかった。
監督に明確なビジョンがあって、その画にむけてスタッフと俳優が一丸となって作りこんでいく。そうやって撮られた本番のテイクが集まってできたのが映画といわれたら、本番のテイクがないこの作品はなんといっていいかわからない。感想でいくつか『これは映画なのか?』という意見が寄せられたんですけど、その気持ちが自分もわかるところがあります。
脚本はあるわけですけれど、あるビジョンがあって、そこに向かって作っていったわけではないので劇映画とはいえない。かといって限りなく筋書きのない撮れた映像で構成はしていますけど、一般的な考えに基づくドキュメンタリーともちょっと違う。
描くべき物語はあるものの、主旨は別にあって、しかも限りなく偶発的に撮れてしまったもので構成されている。こういう作品はもう二度と撮れないと思います。
自分でもどうしてこういう作品ができたのかわからないところがあるんです(苦笑)」
監督の完璧な演技と俳優の完璧な映画はかなり違うかも
監督自身もなかなか説明し尽くせないところがある本作だが、それぞれの俳優たちの変化からさまざまなことが見えてくる。
俳優たちがセリフだけを読んでいるところと、動きを合わせたところでは印象が変わる。ただ、それは見た目の印象であって、もしかしたら役者の意識はあまり変わっていないかもしれないと感じる瞬間もある。
声のトーンや声色で印象はまったくかわるが、なにがベストなのかは共演者との間合いなどでまったく変わってくることにこちらは気づかされる。
人は演技のなにに心をもっていかれるのか、おぼろげながら見えてくるところもある。
「こう言ってしまうと元も子もないんですけど、正解がないんですよね。
どんどん芝居が成熟すれば成熟するほど、トップの状態に迫っていく。ただ、この作品は本番は(撮らずに)残しておかなければならない。俳優たちの演技を完成の域にもっていかなくてはいけないんですけど、完成させてはダメ。自然な流れに任せてはいるんですけど、俳優がすべてを出し切る寸前まで、なにかを引き出さないといけない。
ただ、俳優も改めてすごいなと思ったというか。これ感じる方もいると思うんですけど、はじめは迷いながらも、役を手繰り寄せていってその人物が一度体に入る瞬間があるんですね。そうすると、なにをやっても瞬く間に正解に近づいていってしまう。OKテイクに到達しようとする。
だから、実はリハーサルは1週間を予定していたんですけど、5日間で終わってしまったんですよ。もうこれ以上やる必要はない。限りなくOKテイクに近づくところに俳優さんたちがいってしまったので。
でも、おもしろかったのが、私たちスタッフサイドはこれ以上やると本番になってしまう、これ以上やることはないのでリハーサルを早く切り上げる判断をしたわけです。
で、そのことを俳優陣に説明したら、『なんかもうちょっと試せることがあると思うけど』みたいな意見が、俳優さんたちからポンポン出てきたんですね。
こちらはもうやれることはないと思ったのに、役者サイドはまだ全然やれることがあると言う(笑)。こんなにも感覚の違いがあるのかと思いましたね。
わかんないんですけど、監督の私としてはパーフェクトな演技が必ずしも正解ではないというか。完璧な芝居だとあまりに完璧すぎて逆に嘘っぽくみえてしまうから、少し崩れるぐらい、少し危うさがあるぐらいが正解だったりする。
一方で、俳優さんはやっぱり演技者の性なんでしょうね。その少し崩れるところを嫌うというか。あくまで完璧に、少しの乱れも許さないで演じ切ることを理想としているようにみてとれる。それは発見でしたね。
演出する側だと、あまりに心と体、言葉のバランスが完璧すぎると、ちょっと疑ってかかる。でも演じる立場の人たちは、それを完璧に一体化させようとする。こんな違いがあることに気づきました」
役者という生き物の核心に少し触れられたかもしれない
このことは今後、監督を続けていく上で大きな収穫になったという。
「自分の中に、役者という生き物の核心に触れたいところがずっとあったんですね。簡単に言ってしまえば、俳優のことをもっと知りたかった。その一端を今回の試みは紐解けた気がします。
今回の作品では得難いものを得れた感触がある。この次に撮る作品は、ここでの経験がものすごく反映される気がしています」
(※後編に続く)
「王国(あるいはその家について)」
監督:草野なつか
脚本:高橋知由
出演:澁谷麻美 笠島智 足立智充 龍健太
アテネ・フランセ文化センターにて開催中の<ドキュメンタリー・ドリーム・ショー 山形in東京2020>にて
12月4日(金)16:30~/12月12日(土)18:00~上映
写真はすべて提供:草野なつか