棋聖・天野宗歩は酒癖がわるく、弟子の小野五平はあきれて去ったけれど、その技倆は尊敬していたという話
天野宗歩(1816-59)は、偉大な将棋指しです。時代のめぐり合わせで、名人(九段)にはなれませんでした。しかしその実力は「十一段」とも「十三段」とも言われ、後世の人々からは「幕末の棋聖」と称え続けられています。
残された棋譜を見れば、宗歩が盤上においては大天才だったことがわかります。また在野にあって多くの弟子を持ち、広く慕われた点なども、宗歩の魅力の一つとして伝えられています。
ただし同時代を生きた人々の証言をたどってみると、盤外における宗歩には、いくらか感心しないところもあったようです。
小野五平(12世名人、1831-1921)は、幕末、生前の宗歩に教えを請うた若者の一人でした。
明治39年(1906年)。数え年で76歳になっていた五平が往時を振り返り、わりと率直に語った談話が佐瀬得三著『当代の傑物』「将棊の名人 小野五平」(刊)という本に収められています。五平の率直な心情が表されているところなどは大変貴重で面白いと思われますので、ここでご紹介したいと思います。
五平は阿波国(現徳島県)脇町出身で、旅籠の家に生まれました。
五平はその生涯で何度か名を変えており、若い頃の名は土井喜太郎。本稿では以下「喜太郎」と表記します。また時系列が錯綜しているところもありますが、そのままの順で引用していきます。年齢はすべて数え年です。
天野宗歩は、37歳で御城将棋に出ることが決まるまでは「富次郎」という名でした。
喜太郎が富次郎に入門したのはいつなのかは、文献によって諸説あります。もし宗歩が江戸にいた41歳の頃だとしたら、喜太郎は26歳になります。
喜太郎が後年、弟子の溝呂木光治(追贈八段、1891-1940)に語ったところによれば、宗歩に指してもらったのは、生涯で飛車落ち、ただ一局だけでした。それが京都なのか、江戸なのかも両説あるようですが、嘉永4年(1851年)4月20日にという日付が正しければ、当時滞在中だった京都になります。富次郎(宗歩)は36歳、喜太郎は21歳でした。
天下の天野先生を相手では、飛車落ちでもなかなか勝つのは難しい。しかし喜太郎青年は、手合違いとも思えるような完勝を収めます。図の角打ちが攻防に利く名手でした。
その後ほどなくして、富次郎は江戸に戻っていきました。喜太郎は故郷に戻り、しばらくの間くすぶっていたものの、将棋への思いを断ち切れず、江戸へと出ていきます。
他の文献(小野五平「将棊の談」『新小説』1902年1月)によれば、喜太郎が宗歩宅を訪れたのはちょうど、宗歩が御城将棋の下指しをしていた日でした。御城将棋は、当時の将棋指しにとっては最高の舞台です。時間的な制約などから、前もって真剣勝負を戦っておき、旧暦11月17日に江戸城において、その棋譜を再現してみせるのが慣例でした。
時期的に見てその対戦とは、安政3年(1856年)の▲天野宗歩(41歳)-△伊藤宗印(31歳)戦でしょう。
宗歩は強敵を相手に、将棋史に残る名手「遠見の角」を放ち、以下は会心の指し回しで勝利をあげました。
宗印は将棋宗家の一つである伊藤家の八代目の当主で、実力的には宗歩に次ぐ二番手でした。喜太郎から見て、宗歩は15歳、宗印は5歳年長です。のちの話ですが、明治に入ると、宗印と喜太郎は張り合う仲になります。
数え41歳で、円熟期を迎えていた宗歩師。しかしその生活は、弟子の喜太郎の目には乱れたものに見えたようです。
喜太郎は同様の話を幸田露伴(1867-1947)にもしており「将棋雑話」という一文でも紹介されています。
酒浸しで、食事は重湯(おもゆ)一杯となれば、健康にいいはずがありません。
「天下に敵なし」という状況も、宗歩の芸道においては、不幸を招いたようです。
在野の将棋指しにとって、貧乏は宿命のようなもの。収入が不安定な上に、さらに道楽に走れば、いっそう拍車がかかります。そうした中で、身を持ち崩していく将棋指しも多かったようです。
宗歩が亡くなったのは安政6年(1859年)5月13日。数えで44歳という若さでした。
宗歩はなぜ若くして亡くなったのか。その死因などについて、詳しいことは伝わっておらず、後世、様々な憶測を呼ぶことになりました。
喜太郎の証言を素直に読めば、酒によって健康を害したということになるのでしょう。あるいは、酒癖のわるさによってなんらかのトラブルに巻き込まれた、という可能性もあるのかもしれません。
宗歩は弟子の面倒見がよかったようで、弟子と指した棋譜も多く残されています。しかし喜太郎が内弟子だった頃の宗歩は、そうではなかったのかもしれません。喜太郎にとっては残念だったでしょう。
宗歩は指してくれないにせよ、その近くにいられるのは、喜太郎にとっては最高の環境でした。
宗歩の大きな功績の一つは1853年、自身の研究成果を惜しみなく書き記した『将棋精選』を刊行したことです。
これは当時における最高の定跡書で、以後、長きにわたって、上達を志す人々の聖典となりました。宗歩宅にはもちろん、過去の文献も多くあったことでしょうが、おそらく喜太郎にとっては、師が著した『将棋精選』が最高の教材となったに違いありません。
喜太郎は宗歩の技倆に感服していた。しかし酒癖のわるさを見て先が思いやられた。人には語れないような、いろいろなこともあったのでしょう。喜太郎はついに、師匠のもとを去っていきます。
宗歩はその生涯を通じて、何度も全国各地を周っています。地方にいけば、天下の天野先生を歓待してくれる将棋愛好家は、幾人もいました。
江戸時代では、将棋はほとんどの場合、いくらかの金銭が賭けられていました。宗歩に平手で勝てるような人は在野にはもちろんおらず、宗歩は駒を落として戦っていましたが、そうした場合でも、しばしば高額の賭金が乗せられていました。
たとえ宗歩であっても、無理な手合では勝てません。敗れて賭金を払えず、支援者に借金を求める手紙なども残されています。棋聖・宗歩もまた、人間界の様々なトラブルとは、無縁ではありませんでした。
当時としては異例のことですが、喜太郎は生涯、賭将棋をきらっていました。もしかしたら宗歩が反面教師となったのかもしれません。
喜太郎は一時期、宗歩のボディーガード的な役割も務めていたようです。将棋も強く、遊歴の経験もあり、機転も利く喜太郎は、頼りになる弟子だったのでしょう。
安政4年。42歳となった宗歩は、奥州(東北地方)に出かけるにあたり、喜太郎を誘います。しかし喜太郎は応じませんでした。
「断然禁酒するから」と言って頼み込む宗歩と、すげなく断る喜太郎。以上は、両者の性格がよく表されたやり取りに思われます。
宗歩と喜太郎は飛車落ちを一局指しただけで、師弟関係といえるものがあったかどうかもあやしい、と見る人もいます。
しかし以上の喜太郎の証言を信じるのであれば、両者の関係はかなり濃密なものだったとも推測されます。
44歳で亡くなった宗歩とは対照的に、喜太郎は長い人生を送りました。
時代が大きく移り変わり、明治に入ると、土井喜太郎は何度か名前を改め、小野五平となります。
将棋指しのほとんどが苦難の道をたどる中、五平は政財界の有力者たちをパトロンにつけ、着実に地歩を固めていきました。
11世名人伊藤宗印や、有力なライバルたちは次第に亡くなっていき、明治31年(1898年)、68歳になっていた小野五平は、ついに念願の名人位に就きました。盤上の技術では師を見習い、盤外の生き方では師を反面教師とした末につかんだ栄冠のようにも思われます。
五平が亡くなったのは1921年。享年、91歳でした。