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【富田林市】江戸時代の絵図面に残されていた4つの門はどこ?現在の寺内町で門があった場所を探してみた

奥河内から情報発信奥河内地域文筆家(河内長野市・富田林市)

今さらながら富田林で観光と言えば寺内町ですが、その力の入れようは、ネット上を見ても明らかです。例えば富田林市文化財デジタルアーカイブ「おうちdeミュージアム」(外部リンク)の古文書・民俗資料の中に古い寺内町の地図が公開されています。

こちらが絵図面です。これは1753(宝暦3)年の富田林村絵図の様子を描いたものの一部です。資料によれば富田林村庄屋武助・年寄平兵衛・同八郎右衛門・同平助・同権三郎・同長左衛門が作成したとあります。

寺内町は戦国時代に他の勢力からの自衛のために作られた町なので、高いところに作ったり門を作ったりするなどして、外部から簡単に入れないようにしています。

次にこちらは1837(天保八)年の絵図面の一部です。制作者などの情報はありませんが、上の図と比べて大きな特徴として、囲ったところを見ると門が描かれています。

今は寺内町の入口に門はありませんが、当時は寺内町の入口に境界線を示すように、門があったのでしょうか?

当日の絵図面を元に、現在の寺内町でどのあたりに門があったのか、調べてみました。

それがこの図となります。茶色の枠内が寺内町で、赤丸が門が描かれている地点です。それにしても驚いたのは、江戸時代の絵図面の道路と現在の寺内町の道がほぼ一致していること!だからすぐに、場所の大まかな特定ができました。

昭和の時代に杉山家住宅や寺内町を保存することを選択した先人に感謝ですね。

ということで、絵図面に描かれていた門のあたりは今どうなっているのでしょうか?さっそく実際に寺内町を歩いてみました。

まず南側から攻めてみましょう。この道は東高野街道で、寺内町に向かっている途中です。

絵図面などから見て、どうやらこのあたりに門があったと推測されます。

ここで、左側の道が下方向に降っているようです。これが向田坂(こうだざか)のようですね。

標識も見つけました。これでひとつの門の跡地をみつけたことになります。

次に、山家坂の方に向かってみましょう。

絵図面によれば、この右側の道上がりに門があって、その先に坂があるようなのですが、実はこの先にあるのは個人の家で坂はもうなくなっているようです。

これでは不完全なので、先ほどの向田坂からいったん寺内町から外に出て、石川沿いに歩いて、反対方向から見てみることにしました。

地図ではこの辺り、高台との境に家が建っていますが、よく見ると細い道のようなものが見えます。恐らくこのあたりがかつて坂(山家坂)があって、寺内町の入り口に門があったのではと想像できます。

山家坂はもうありませんが、隣の亀ヶ坂は健在です。

こちらが亀ヶ坂です。この階段を上って寺内町に戻りましょう。

ちなみに絵図面を見る限り、亀ヶ坂には門は無かったようです。

上がってみました。門の形跡は確認できませんが、亀ヶ坂の存在は、かつての寺内町とその外側との境界を、今も強く感じることができる場所だと思いました。

「かめがさか(亀ヶ坂)」と明確に書いていますね。

これまで確認したところはこのあたりです。

それでは残りの門を確認しましょう。これは寺内町展望広場からの風景です。

次は山田中坂です。ここがいちばん解りやすいですね。隣にあるのは富栄戎神社です。

ここは今でも石川方面に降りることができます。江戸時代のころには、この場所に門があったのですね。

普段は敷地内を施錠している富栄戎神社ですが、1月9日から11日までは恒例の戎まつりが行われ、お参りすることができます。関東煮(おでん)の販売や福引大会もあっるそうなので、とても楽しみですね。

昨年の富栄戎
昨年の富栄戎

昨年の様子を紹介しましょう。富栄戎については昨年記事にしています。

昨年の富栄戎
昨年の富栄戎

今年もぜひ行きたいところですね。

さて、話を戻しましょう。これまで3つの門の跡を見ました。残るはあとひとつです。寺内町のもっとも東側にある東筋を北に向かいます。

残るは一里山口です。それまでは谷になっている石川の方面に降りる坂なのですが、この門の前は坂ではありません。

そういえば寺内町は、北側の本町あたりと一体化している節があって、富田林駅方面から南下するとどこから寺内町になっているのか、一瞬わからなくなるときがあります。つまり坂が無いからなのでしょうね。

このあたりに門があったと推測されます。この道は東高野街道で、この先には若一と呼ばれている若松町一丁目があります。このように坂はありません。

そういえば、グッドデザイン賞など4つの賞を受賞した住宅が見えますね。

今回歩いたところです。こうふたつの門はこのあたりですね。

これで絵図面で描かれていた4つの門があったと思われる場所の探索は終わりました。しかし、番外編ではありませんが、どうしても確認したいところがあります。

それは西口のあたりです。かつてそのあたりにも門があったのではという情報も見たからです。

この道は寺内町の西の端の西筋だったところのようです。西口はそのすぐ近くです。

やがて西口と思われる地点が見えてきました。

ここが西口です。ここに門があったかどうかは絵図面ではわかりません。しかし見ている限り、境界線ぽい雰囲気を感じました。

西口はこの辺り、浄谷寺の下になりますね。

こうしてかつての門探索は終了したのですが、この寺内町で1月9日に恒例の第15回新春じないまちめぐりが開催されます。露店や模擬店は行わないそうですが、以下のイベントが行われます。

  • じないまち新春ウォークラリー
  • ファンタジア・じないまち
  • #ひらめいてじないまち
  • 旧杉山家住宅ガイド
  • 新春・寺内町ガイド
  • はぴなん救出大作戦inじないまち

そのほか、富田林観光交流施設「きらめきファクトリー」で寺内町講座①「富田林寺内町の歴史」は前日の8日に、寺内町講座②「富田林寺内町の意匠」が当日9日に行われるそうです。

こちらの参加については、1月6日までにきらめきファクトリー(0721-24-5500)に事前申込みが必要とのこと。

また上でも紹介しましたが、富栄戎の戎まつりも9日から11日までの期間行われます。

ということで、新年早々、寺内町ではいろんなイベント・行事が行われるようです。

これらのイベント・行事に参加する際のついでに、今回紹介した4つの門の跡や西口あたりを確認してみながら、かつての寺内町の雰囲気を想像してみてはいかがでしょうか?

富田林寺内町
住所:大阪府富田林市富田林町
アクセス:近鉄富田林駅、富田林西口駅から徒歩圏内

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奥河内地域文筆家(河内長野市・富田林市)

河内長野市の別名「奥河内」は、周囲を山に囲まれ3種類の日本遺産に登録されるほど、歴史文化的スポットがたくさんある地域です。それに加えて、都心である大阪市中心部に乗り換えなしで行ける複数の大手私鉄(南海・近鉄)と直結していることから、新興住宅団地が多数造成されており、地元にはおしゃれな名店や評判の良い店なども数多くあります。そして隣接する富田林市もまた、歴史文化が色濃く残る地域。また南河内地区の中核都市として、行政系施設が集まっています。これを機会に、奥河内(一部南河内含む)地域に住んでいる人たちのお役に立つ情報を提供していければと考えています。どうぞよろしくお願いします。

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