家康の縁戚として、久松松平家となった於大の方の子孫
19日のNHK大河ドラマ「どうする家康」では、第1回から登場していた本多忠勝や、第2回から登場の榊原康政が姿を消し、一気に世代交代が進んでいる。
そうした中、冒頭では家康の母於大の方も登場して、その後のナレーションで死去が伝えられた。この関ヶ原合戦後の時期まで於大の方が生きていたことに驚いた人も多いだろう。
於大の方が亡くなったのは、関ヶ原合戦から2年が経過した慶長7年(1602)で、数え年で75歳という当時としてはかなりの長寿だった。家康の没年齢も同じ75歳で、長生きの家系なのかもしれない。
この於大の方は家康の生母だが、他にも子どもを生んでいる。その子孫はどうなったのだろうか。
於大の方の出自
於大の方は尾張の有力豪族水野氏の出で、家康の父広忠に嫁いで家康を生んだものの、広忠が今川方についたために離縁され、織田方の水野氏のもとに送り返された。そして、阿久比城主の土豪久松長家(のち俊勝)のもとに後妻として嫁いでいる。
従って家康にとって長家は義理の父にあたり、のちに家康が独立すると長家は家康の家臣となった。
於大の方と長家の間には、康元、勝俊、定勝という3人の男子があった。
このうち、勝俊(のち康俊)は家康と武田信玄が同盟した際に、人質となって甲斐に赴き、のち服部半蔵に導かれて甲斐を脱出した様子がドラマでは描かれた。しかし、残りの2人ついてはほぼ顔を見せただけに終わっている。
3人の子達の子孫
於大の方の3人の男子は、いずれも将軍家の一族として「松平」の名字を賜って松平氏を名乗り、久松松平家と呼ばれた。その後の3家についてみてみたい。
まずは、苦難を味わった勝俊の子孫。しばらくは旗本だったが、5代目勝以のときに大名に取り立てられて、下総多古藩(現在の千葉県香取郡多古町)1万2000石の藩主となった。
続いて、俊勝の長男康元の子孫。康元は家康の関東入りの際に下総関宿4万石の大名となり、以後各地を転々としたものの、伊勢長島藩主だった忠充のときに重臣3人を切腹させるなど乱行があり、元禄15年(1702)に改易された。
子孫は交代寄合(高禄の旗本)となっている。
伊予松山藩主となった定勝の子孫
3家の中では、ドラマにはほとんど登場しなかった三男定勝の子孫が最も栄えた。
定勝は関ヶ原合戦後、遠江掛川藩3万石を立藩。子定行は伊勢桑名を経て、寛永12年(1635)に伊予松山15万石に入封し、以後幕末で代々松山藩主をつとめた。四国を監視する意味があったという。
分家に伊予今治藩主や伊勢桑名藩主の久松家がある。
なお、久松松平家は明治維新後には「松平」から本来の「久松」に戻した家が多いが、一部はそのまま「松平」を名字とした。元NHKの松平定知アナウンサーは、松山藩主の一族の末裔である。