日本で最も原始的な寺が青森にある 「冥界結婚」の奇妙な風習
恐山に引けを取らないディープな霊場
青森県の寺院数は約470ヶ寺と東北各県で一番少ない。他方、神社は多いかといえば、890社ほどでこちらも東北で一番少ない。京都や江戸から遠く離れた立地が、寺社数の少なさに影響していることが理由のひとつに考えられる。青森県は各宗派の布教の波打ち際にあるのだ。
だが、「霊場」は数多く存在する。青森県を代表する霊場といえば、真っ先に思い浮かぶのが「恐山」だ。恐山は正式には恐山菩提寺という寺院の境内にある。恐山は全国的に知名度が高いが、青森県にはさらにディープな知られざる霊場が存在する。
津軽地方の死生観が凝縮された原始的な宗教施設、川倉賽の河原地蔵尊(五所川原市、無宗派)だ。仏教、神道、土着宗教が混在した聖地である。故人があの世で生活を続けるための遺品を祀る本堂や、「死者の結婚式」を行う施設がある。大祭の時にはイタコが集って「口寄せ」行う。まるで、あの世をみるかのような不思議な空間が広がる。
「宗教法人」ではない寺
本州最北端の地にある恐山は、下北半島にある活火山だ。だが、一般的には恐山といえば、火山が形成したカルデラ湖、宇曽利山湖の畔にある曹洞宗寺院、恐山菩提寺をさす。境内地では、火山性ガスがあちこちから吹き出しており、地獄を思わせる風景をつくり出している。
恐山菩提寺は862(貞観4)年、天台宗の高僧円仁によって開かれた。円仁は、仏教が日本列島に広がる際のキーマンのひとりだ。本書でも「円仁創建」をうたう寺院が次々登場する。ことに東北の仏教のはじまりには、その名が深く刻まれている。
円仁が唐に留学していた時のこと。夢の中で、「汝、国に戻り、東方へ歩いて30余日のところに霊山がある。そこで、地蔵菩薩一体を刻して、その地で仏道を広めよ」とのお告げを聞いたという。円仁は帰国するや、お告げ通りに東北へと旅した。そして、恐山にたどり着き、寺を創建したという。したがって恐山は、開山当時は天台宗寺院であった。
だが、その後、恐山は衰退。そこで1522(大永2)年に、陸奥の武家、南部氏の援助を受ける形で、曹洞宗円通寺が建てられたのを契機に、恐山菩提寺は円通寺の傘下に入る。以来、円通寺が恐山菩提寺の本坊として管理し続けている。死者の魂が集うとされる恐山を管理する寺院の宗派が、霊魂の存在を積極的に認めない曹洞宗であるのは、そうした歴史的経緯が背景にあるのだ。恐山の縁起や概要は、多数の書物が存在するのでこれ以上は詳述しないでおく。
ここで取り上げるのは、青森を代表するもうひとつの霊場、津軽半島にある「川倉賽の河原地蔵尊」である。全国的な知名度は低いが、「あの世」を実感できるという意味では恐山以上である。
川倉賽の河原地蔵尊はその名称からして、日本仏教の定型から外れている。
通常の寺院名は、「○○山〇〇寺」「○○山〇〇院」「○○山〇〇庵」「○○山〇〇堂」という山号と寺号がセットである。山号は隋から唐の時代にかけ、同名寺院と区別するため、寺院が所在する場所の山岳の名前から取られたのが最初と言われている。日本では鎌倉時代以降、臨済宗を中心に採用され始めた。
日本の場合でも、山間部にある寺であれば所在地の山の名前から山号を取った。たとえば比叡山延暦寺(滋賀県)、身延山久遠寺(山梨県)などである。一方で平地に所在する寺の場合は、仏教用語や名刹の山号などから引用した。三縁山増上寺(東京都)、正法山妙心寺(京都府)、東叡山寛永寺(東京都)などである。東叡山は、東の比叡山という意味である。
しかしながら、川倉賽の河原地蔵尊には山号がついていない。この川倉地蔵尊は、厳密にいえば特定の仏教教団に所属する寺院ではないのだ。宗教法人の登記もされていない。では、信仰の核は何か、といえば地域の人々によって祀られ続けている「地蔵」なのだ。
したがって常住の住職はおらず、20名からなる地蔵講中が管理・運営をしている。
講中(講)とは地域の信仰を同じくする集団(結社)のことだ。平安時代以降、全国に様々な形態の講が出現した。地蔵講の他にも念仏講、題目講、伊勢講や熊野講、富士講などが有名である。
川倉地蔵尊の場合、地蔵講中が地域の僧侶を任命し、定期的にお勤めに来てもらう仕組みをとっている。
この賽の河原地蔵尊は、文豪太宰治を生んだ五所川原市金木町にある川倉集落の小高い丘にある。賽の河原とは、あの世(彼岸)とこの世(此岸)との境界に流れる三途の川に広がる河原のことだ。賽の河原では夭折した大勢の子どもが、親不孝の罪滅ぼしのために積み石をしている。積み石を完成させれば、三途の川を渡ることができるという。しかし、完成する直前に鬼がやってきて、壊していくのである。虚しい作業が延々と続く。だが、にわかに地蔵菩薩が出現し、子どもたちは悉く救済されるという。そのため地蔵菩薩は子どもの守護仏として位置付けられてきた。
川倉賽の河原地蔵尊のルーツを辿れば数千年前、この地方の天空から不思議な燈明が降りてきたとの言い伝えがある。その光に照らされた場所から、一体の地蔵が出てきて祀られたのがはじまりだ。
次に縁起が出てくるのは平安時代になって、正式に寺が開かれた時。開山上人は、先述の恐山を開いた円仁といわれる。その真偽は定かではないが、恐山と川倉賽の河原地蔵尊が生まれたのは、ほぼ同時期であると考えられる。
五所川原市内を歩けば、至るところに小さな祠を見つけることができる。そこには地蔵が複数安置されている。石膏で「化粧」が施されているのが特徴だ。「化粧地蔵」である。化粧は年に1度、地域の人によって施される。こうした化粧地蔵は京都でも見ることができる。都の信仰形態が北限の地にまで広がったのかもしれない。
津軽の化粧地蔵は、十字架のようなクロス文様が描かれた前掛けをつけているのが特徴だ。これは、隠れキリシタンが祀ったとする説もあるが、魔除け説が有力である。
津軽の地蔵は明治期から昭和初期にかけてつくられた、 比較的、新しいものが多い。昭和初期の津軽地方は、生活困窮、衛生状態の悪さ、医師不足などが要因となって乳幼児の死亡率が高かった。津軽では古くからの地蔵信仰と、こうした悲しい歴史とが相まって、各地に化粧地蔵が置かれていった。津軽地方における地蔵の総数は不明だが、ひとつの集落で三百を超える地蔵が安置されているところもある。川倉賽の河原地蔵尊は、東北における地蔵信仰の総本山とも位置付けられる存在だ。
「冥界結婚」の習俗が残る
では川倉賽の河原地蔵尊は、どのような「寺」なのか。山門は仁王門に山王鳥居が合体した珍しいつくりであり、神仏習合の古態をあらわしている。中心的建築物は、地蔵堂だ。地蔵堂はずっしりと重厚感のあるコンクリート建築で、さほど古いものではない。だが、中に入ると目を疑うような光景が広がる。
儀式を行う内陣が中央にあり、その周囲を多数の地蔵が取り囲んでいる。その数は2000体超。地蔵はまるでスタジアムの観客のように、高い位置から参拝客を見下ろしている。いずれも褞袍などの衣装をまとっている。家族を亡くした遺族が、地蔵をこしらえてここに奉納したのだ。
さらに堂内には様々な供物が置かれている。とくに目を引くのが草履や靴だ。これらの履物は、「あの世でも裸足では困るだろう」「年に1度は新しい履物に」と、遺族が想像力を働かせて奉納したもの。
同様に衣服、ランドセル、車椅子、買い物のカートに至るまで生活用品が無数に陳列されている。多くの日本の寺院のお供え物は花や水、餅、菓子、青果程度である。ここでは家族が亡くなった場合、浄土でこの世と同様の生活を続けていると信じ、実用品の供物を続けているのだ。
地蔵堂の脇には、人形堂と呼ばれる別の施設がある。そこには、ガラスケースに入った紋付袴姿の花婿と、白無垢の花嫁の衣装を着た夫婦の人形が無数に陳列されている。人形の脇には故人の写真と俗名が書かれた紙が添えられている。これは未婚のまま亡くなった人が、あの世で結ばれるようにと、遺族が人形に願いを込めて安置したものだ。
この習俗の歴史はさほど古くなく、先の戦争で命を落とした息子のために遺族が奉納したのがはじまりだという説がある。「あの子が生きていれば、今頃、結婚しているはず」。遺族のそんな願いを具現化したものと言える。
だが、ただ奉納するだけではない。彼らが結婚適齢期(成人)を迎えた頃、人形を本人に見立てて「結婚式」が挙げられる。この津軽特有の習俗を、「冥界結婚(死者の結婚)」という。冥界結婚式を執り行うにあたって、故人の配偶者となる人形に、花婿もしくは花嫁としての名前がつけられる。そして供物などが施され、仏前結婚式が挙げられるのである。
この習俗は津軽地方の弘法寺でも見られる。また、山形県最上・村山地方では、「ムカサリ絵馬」を奉納する儀礼がある。「ムカサリ」とは婚礼のことをいう。これは結婚式の様子を想像で描いたものを寺に奉納するしきたりであり、こちらもやはり「冥界結婚」の習俗として位置付けられる。
川倉賽の河原地蔵尊の7月の例大祭の日には、地蔵堂の裏でイタコによる口寄せが行われる。口寄せとは、死者の霊魂を憑依させ、その言葉を伝えるものだ。イタコといえば、恐山に出張してくる南部イタコが有名だが、津軽にもイタコは存在する。四半世紀ほど前までは地蔵堂の裏にテントをこしらえ、口寄せをするイタコが30〜40人ほどもいたが、イタコの高齢化と継承者育成が進まず、現在では1人だけになっているのは寂しい限りだ。
この地に立てば、あの世もこの世も「地続き」であることに気づかされる。東北人の死生の息吹が、この不思議な供養形態をつくりだしていると言っても過言ではないだろう。
川倉賽の河原地蔵尊のように「知られざる名刹」の縁起を紹介したのが拙著『お寺の日本地図 名刹古刹でめぐる47都道府県』だ。併せてご覧いただければ幸いである。