「3000円の給食費が払えず嘘をついていた」”こどもの貧困”だった当事者の話を聞いた
「貧困なんて、本当に日本にあるの?」「まわりでは見たことがないけれど…」そんな風に思う人も多いかもしれません。
今回は、元「こどもの貧困」当事者だったという田村真菜さんの話を紹介します。
父親の病気がきっかけで、「貧困」がはじまった
真菜さんは、自身の体験をもとにした「家出ファミリー」という私小説の著者です(2017年、晶文社)。小説の中では、子どもの頃に貧困や虐待に苦しむ描写が出てきていました。
今の日本では、7人に1人の子どもが相対的貧困と言われています。相対的貧困とは、その国や地域の水準の中で比較して、大多数よりも貧しい状態のこと。「家がない」「食べ物がない」などの絶対的貧困とは違って、相対的貧困の状況下にある人たちの困難はイメージしづらいと言われています。
真菜さんは、幼い頃は、経済的には”普通の家庭”でした。父親はフルタイムで働く会社員、母親は専業主婦として子どもたちの面倒を見ていました。厳しすぎるしつけや親のヒステリーなどはたまに起きていたものの、経済的には苦しくなかったそうです。
生活が苦しくなりはじめたのは、6歳の頃。父親が突然パニック障害で電車に乗れなくなり、仕事を退職します。看護師の資格があった母親が働きに出るも、子どもたちの世話もあるため、仕事は非正規雇用。独身の時のようには稼ぐことができません。収入は相対的貧困のラインを下回り、貯金も減って生活はだんだん苦しくなっていきました。
「給食費、封筒に入れてくるの忘れました」と嘘をつくしかない
小学校時代は不登校で、学校のテストなど以外は6年間ほとんど学校に行っていないという真菜さん。不登校になった原因は、学校の勉強が合わなかったこともあるようですが、貧困も1つの理由だったと語ります。
「給食費を集める日を前もって伝えておいても、親からは何も入っていない封筒を渡される。私は先生の前で、『あれ、うっかり忘れました』と、その場で気付いたように嘘をついていました。3000円位なんですけど、それも用意できない。演技しながらもいつも罪悪感でいっぱいでした」
他にも、ランドセルを2つ買うことが、当時の経済状況ではできなかったそう。妹が1年生になるときに自分のランドセルを妹に譲った真菜さんは、クラスで1人だけナップザックで登校します。クラスメイトに「ランドセル買えないんだろ」「田村の家は牛小屋みたい」と言われ、つらく感じる時もあったといいます。
父親はその頃、昼から家で酒を飲みつづけ、アルコール依存症のようだったそう。生活苦から家族関係も悪化しており、親から刺されそうになったり、母親が家をしばらく空けることなどもあったといいます。
貯めていた専門学校の入学費を、親がお酒に使ってしまう
中学生になると友人らの家に外泊をはじめ、高校では「家で寝た日のほうが少なかったかも。ちょっとグレていたかもしれませんね」という真菜さん。それでも美術が好きだった真菜さんは、進学して学びたいと考え始めます。高校の先生のサポートもあり、美術系の専門学校に合格しました。
しかし、専門学校の入学費用にためてあったはずの家の貯金を、父親が全部アルコールに使い切っていたことが、入学費の振込前日の夜に発覚。どうしたらいいかわからなくなった真菜さんは、ストレスで心身を壊してしまいます。
「体調が悪いので病院に行こうとすると、『おまえが生きていると治療費がかかってしょうがない』と親に言われたりもしました。病院代を自分で払えるよう、風俗やAV出演などを真剣に考えていた時期もあります。親は親なりの困難があったかもしれませんが、お金がないと、子どもにそういう言葉をかけてしまうくらいに心がすさむ。貧しいというのは悲しいことだと痛感しました」
同じような家庭環境の友人にどうしようと相談した真菜さん。「AVに出ても若い時しか稼げないかも。今はつらくても、大学に行ってずっと働ける仕事についた方が親元から自立できるのでは」とアドバイスを受け、進学を目指すことを決めます。塾などには行けませんでしたが自宅で勉強し、一浪で国際基督教大学(ICU)に進学することができました。
「大学の先生は、『あなたは、あなたにしかできない経験をしてきたね』と声をかけてくれました。また学費を一部自分で捻出しなければならず、大学でメディアについて学びながら、平行して派遣社員で週4日ニュース編集の仕事もしていました。その職場でいい上司にも恵まれ、新規事業の立ち上げなどいろんな体験をさせてもらうことができて、今があります」
困った親であっても、親を責められると子どもは傷つく
まわりに相談できる大人はいなかったのか、公的支援を受けなかったのか聞いてみると、真菜さんはこう答えました。
「児童養護施設のことなどは、新聞で見かけて知っていました。保護してもらおうと思い、小学生の時に、何度か警察に電話をかけようとしました。ただ、親のことを『怖い、ひどい』と思いながらも、頑張って働いてくれることも知っていた。警察に話すと、親が100%悪いと責めることになる気がして、電話できませんでした」
「子どもの貧困の話や虐待の話は、どうしても親を責めることにつながりやすい。でも子どもの気持ちとしては、暴力をふるう困った親であったとしても、他者から親が責められると傷つくんですよね。どうしようもない親でも、その人なりに頑張っているかもしれない。親も子も悪くないのです。なので、親を責めないような支援や風潮があったらよかったのかな…と思います」
真菜さんは、最後にこう話してくれました。
「自分自身、いまは安定した生活を送れていて、パートナーや息子もいます。でも病気になったりして経済的に困窮することは、今後ありえることだと思います。それは誰にとってもそうですよね。『ありえたかもしれない自分』として、困った人に手を差し伸べられる社会であってほしいです」
元当事者が、経験を活かして当事者を支えていく循環
真菜さんは現在、さまざまな困り事を抱えた人を排除しない”誰も取り残さない社会”をつくるために、いろいろなNPOの広報や社会問題の啓発を仕事にしています。そこには「自分が経験してきた痛みを、次世代に残していきたくない」という想いがあります。
自身の経験を活かしながら関わってくれる人たちは、カタリバにもたくさんいます。
たとえば、「奨学パソコン」を使っている世帯の保護者を支えるペアレントメンター。自身も母子家庭出身で生活困窮を経験してきた人や、生きづらさを抱えてきた人が参加してくれました。多くの人が、「自分の苦労や経験を、少しでも誰かに役立てたい」という気持ちを持っています。
先日の記事でお伝えさせていただいたアキちゃんも、「将来カタリバで働いて、役に立ちたい」と言ってくれており、嬉しく思っています。
「奨学パソコン」を借りて、中1長女の成績が学年トップに。複数の困難を抱える「ひとり親家庭」の希望
「こどもの貧困」、知らなかった人も仲間になって
一方で、困った人を支えることは簡単なことではありません。
真菜さんが子どもだった1995年頃は、4人家族では世帯年収284万円以下が相対的貧困とされており、子どもの貧困率は12.2%でした。しかし2015年には、4人家族で世帯年収244万円まで相対的貧困ラインが下がった一方、子どもの貧困率は13.9%まで上がっています。
貧困の子どもの割合は増えており、元当事者・経験者の頑張りだけでは、いま社会にいる困った人たちを支えきれない状況なのです。
だからこそ、私たちは、多くの仲間を探しています。これまで貧困のことについて知らなかった人とも、仲間になれたらと思っています。
困窮した家庭にパソコンとWi-Fiを貸与する『奨学パソコン』の費用の一部を集める「あの子にまなびをつなぐ」プロジェクトのクラウドファンディング(8/31締切)では、約1800人がご寄付をくださいました。お金が集まっていることも有り難いのですが、それだけの人たちがこどもの貧困について新しく知り、心を寄せてくださることこそが大きなインパクトにつながると感じています。
子どもの頃の真菜さんのように、「意欲はあるけれど、夢をかなえていく機会がない」という環境に置かれている子どもたちは、今もたくさんいる。子どもやその家族を中長期的にサポートすることで、貧困の連鎖を断ち切ることができる。それが子どもたちのためにも、社会のためにも重要だと思っています。
これまで知らなかったという人も、今から知っていくことはできます。
「貧困なんてはじめて聞いた」という人も、「実はこどもの頃に困窮していた」という人も。みんなで手を取り合いながら、よりよい支援の形を一緒につくっていけたらと思います。