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どうして豊臣政権は短命だったのか?存続のカギは弟・豊臣秀長が握っていた!?

歴ブロ歴史の探求者

織田信長が天下統一への道を指し示し、豊臣秀吉が達成者として君臨。徳川家康が平和な時代を築いた事実は広く知られています。信長の血筋は次男・信雄の子孫やお市の方の血筋が現代まで続き、家康の子孫は多くが分家して繁栄し明治維新を迎えました。

一方で豊臣秀吉の血筋は、大坂の陣で徳川家康によって断絶され途絶えてしまいます。

織田信長や徳川家康にくらべ、農民の出から天下人となった豊臣秀吉のストーリーは、誰から見ても輝かしいものです。

その成功物語とは裏腹に豊臣家の最期は非常に悲劇的なものでした。

豊臣政権が短期間で滅んだのは、

  • 豊臣秀長の死
  • 黒田官兵衛の左遷
  • 豊臣秀次切腹事件

の3つが理由だと私は考えています。

そこで今回は、短期間で豊臣政権が崩壊した3つの理由に焦点を当てて考察します。
なお、さまざまな説をもとにした私的見解も含まれているので楽しんでください。

参謀であり実弟の豊臣秀長の死

豊臣政権崩壊の一番の要因は『豊臣秀吉の弟である秀長の死』だと考えています。秀吉が天下人となる際の一番の功労者が豊臣秀長です。彼なしで秀吉の天下統一は成し遂げられなかったでしょう。

豊臣秀長は25歳で初陣を果たし、浅井長政との戦い、毛利攻め、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦い、そして四国・九州攻めの総大将と数々の戦いで活躍。その功績により大和・紀伊・和泉・河内を領し、110万石の大名となりました。さらには従二位権大納言の地位を授かり「大和大納言」と称されています。

他にも、秀長は豊臣政権で軍事だけでなく内政面や家臣や各大名家との調整役に奔走し、信頼関係を築いてきました。その信頼から『困難な課題があればまず秀長に相談すべき』とまで言われています。

もし秀長が秀吉と同じく62歳まで生き延びていたら、彼の持ち前の能力の高さで秀次の切腹事件なども回避できたのではないでしょうか?

黒田官兵衛の処遇をあやまった

黒田官兵衛
黒田官兵衛

秀吉の天下統一のもう一人の立役者、黒田官兵衛の存在を忘れてはいけません。

秀吉は黒田官兵衛に100万石を与えたら豊臣家の天下を揺るがすと考え、政権の中枢から遠ざけるために豊前国約12万石を与えました。彼の活躍を考えれば、50万石以上の所領を与えても良いような気がします。

官兵衛の能力を恐れたのは理解できます。それでも当時の豊臣政権にとって家康は危険人物である以上、何らかの手を打った方が良かったのではないかと思います。
小牧・長久手の戦い以降、家康を取り込もうとするだけで力を削ぐような事は結果的にしなかった、もしくは出来ませんでした。

この時に官兵衛の能力をフルに使っていたなら、後の家康の台頭は避けられた可能性があります。

豊臣政権から遠ざけられた官兵衛は長男・長政を家康に接近させ、当時の正室と離縁させてまで家康の養女を正室に迎えました。
その後、黒田家は関ヶ原の戦いで東軍として参戦。西軍最大の毛利氏を調略で戦いに参加させないようにし、東軍勝利の功労者となり、黒田家を筑前52万石の大名に押し上げます。

豊臣秀次切腹事件による一族の処刑

秀吉は農民出身だった事で武家の親族が不足していました。子供にも恵まれず、正室・寧々の実家、浅野家が唯一の頼りでした。ところが、側室としてやってきた淀殿との間に秀頼が誕生すると豊臣家と浅野家の関係が悪化し、関ヶ原の戦いで浅野家は徳川方についてしまいます。

一方、淀殿は浅井長政の娘であり、浅井家はすでに滅亡していたため外戚の支援は望めません。結果、後を継げそうな豊臣家の人材として甥の豊臣秀次が残りますが、その秀次も謀反の疑いをかけられ、関白の地位の剥奪、高野山への追放後に切腹させられました。
この事件で秀吉は秀次の家系を根絶やしにしています。秀次の子や親族も処刑したため、秀吉の後継者はまだ2歳の秀頼だけとなりました。

こうして切腹事件により少ない親族をさらに減少させて、秀頼を支える親族がいない状態に陥っています。子だくさんの家康とは正反対な状況です。
そのため、秀頼を支援するために五大老と五奉行による合議制を導入し、死の直前に外様やライバルの徳川家康に後事を託さなければならないほど、豊臣家には人材が不足してしまいました。

やっぱり優秀な弟が生きていれば…

秀長は調和のとれない豊臣政権のまとめ役であり、秀吉のやりすぎを押さえる役目も持っていました。朝鮮出兵の構想は秀長が生きている時から練られていたもので、秀長は強く反対しています。このことから秀長生前中は兄の暴挙をしっかりと押さえていたと言えるでしょう。

その偉大なる参謀役の死は豊臣政権の何かを変えてしまいます。

秀吉の晩年の暴挙とも取れる、千利休の切腹、朝鮮出兵、豊臣秀次の切腹などは全て秀長の死後に起こっています。 豊臣政権の失敗は、秀長が進めようとしていた政権の体制整備が中断されて文官と武官の対立が解消できなかったことにあります。 秀長が秀吉より長生きをしていたら、このような悲しい事態にはならなかったことでしょう。

それだけの能力が豊臣秀長にはありました。

秀吉には秀頼しか残りませんでしたが、秀次の血筋に子供が数人いた事を考えると、秀長さえ生きていれば豊臣政権の地盤は盤石な体制が整い、豊臣家からさらなる関白が誕生していたかもしれません。
歴史で【もし】を語るのはナンセンスですが、もし秀長が長生きしていれば徳川の世は訪れていなかったと思うのは私だけではないはずです。

歴史の探求者

歴史好きが講じて歴史ブログを運営して約10年。暗記教科であまり好きでないと言う人も少なくないはずです。楽しく分かりやすく歴史を紹介していければと思います。歴史好きはもちろんあまり好きではない人も楽しめるような内容をお届けします。

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