ロシアの幻影。松田直樹が過ごしたワールドカップ
「あれは、みんな狂ってたよね。自分もどうにかなりそうだった。感じたことのない熱量っていうかさ」
2002年の日韓W杯を振り返った松田直樹が、小さなため息と一緒に吐き出した言葉を、筆者は今でも覚えている。
日韓W杯は、松田が過ごした長いキャリアを考えれば、ほんの一瞬の出来事だったはずだが、そこに人生が集約されているような気もする。フィリップ・トルシエの率いた日本代表、フラット3の一角として欠かせない役割を担っていた。押し込まれそうになるとき、裂帛の気合いで押し返せる。日本人では史上数少ない「自分から仕掛けられる」ディフェンダーだった。その働きのおかげで、日本は史上初のベスト16に勝ち進んだ。
日本中が、制御不能な熱狂と喧騒に包まれた。
ワールドカップという熱狂を生きる
「ワールドカップのためなら、自分の体をいくらでもいじめ抜けた。ゾーンに入る、とか自分はわからない。でも、神経が研ぎ澄まされている、というのは感じたよね」
松田はそう回顧している。熱に浮かされるような日々だったのだろう。大会前、松田はほとんどの取材を受けていない。「W杯に集中したい」。その一念だった。サッカー人生のすべてをぶつけようとしていたのだろう。そのためには、敵を作ることを恐れなかった。
「直樹は不器用な子なんです。苦しんでいるのにわざと遊び回っているフリをしたり、記者の方の前でわざと本心を隠して悪ぶったり。そんな行動を取れば、きっと誤解されるだろうに」
松田の母はそう言い、いつも案じていたという。
しかし、松田本人は自分を追い詰めることで、本来以上のプレーを出していた。
そこに、彼の美しさがあった。
燃え尽き症候群
「大会後は、日韓ワールドカップでベスト16になった以上の熱狂を探し求めましたよ。そういうモチベーションが、俺のような選手には必要だったから。今だったら、海外でのプレーとかもあったかもしれない。でも、すでに俺はマリノスを愛しすぎていたし、長くプレーしすぎたというか。他が想像ができない」
マリノスでプレーした最後のシーズン、松田はそんな風に語っていた。
W杯後は、頭をそり上げるなどして、自分の中のスイッチを探し続けた。サッカーボールを蹴る。それは彼の尽きない情熱だった。鋭い眼光で、自分の衝動を抑え難いような戦いの場を求め続けていた。
「あまり言えないけど、燃え尽き症候群と戦ってた感じだね」
松田はそう洩らしている。しかし、虚勢だろうが何だろうが、突っ走った。そして日韓W杯後、2003、04年には、所属していた横浜F・マリノスのキャプテンとして、Jリーグ制覇を達成している。前を向き続けた。
自国開催のW杯というのは特別で、同じ感慨には出会えなかった。しかし、松田は自らの生き方を裏切っていない。同じポジションの選手を認めるような選手を、決して認めなかった。認めないためには自分を高める必要がある。だから燃料が尽きても、最後までアクセルを踏み続けたのだ。
2011年8月4日、松田は移籍先の松本山雅で練習中に突然倒れ、心肺停止。その後、救急搬送されたが、帰らぬ人になった。あれから、7年の歳月がすぎた。
ロシアでの乾の活躍
「こいつら取材したら、きっと面白いよ」
松田が嬉しそうに筆者に推薦した選手が、マリノスの後輩たちが4人いた。後輩たちを薦める彼の表情は、とてもキラキラしていた。その一人が、ロシアW杯で活躍を遂げた乾貴士だった。
ロシアの大地で勇躍する姿は感動的で、その一挙手一投足が熱狂を巻き起こした。ドリブルで切れ込むだけでなく、周囲のコンビネーションを使って崩す。スペインで厚みを増したプレーは、人々を感嘆させた。
「乾のファンになったぞ!」
帰り際、ロシア人が叫んでいた。
ふと、松田が乾を絶賛していたときの顔が思い浮かんだ。「あいつはドリブルするとき、とんでもない迫力がある」。そういって、どこに惚れ込んだのか、どんな将来があるのか。そんなことを弟のことのように無邪気に語っていた。
松田が16年前、日本で巻き起こしたW杯の熱狂は過去の話になりつつある。彼を知らない選手が着実に増えている。毎年、その記憶は朧げになるし、忘れ去られる。残念ながら、それは時の流れだ。
しかし、どこかに爪痕は残る。
そう信じたい。
積み重なる日本サッカーの歴史
「2010年の南アフリカワールドカップは、とにかく守って、という勝ち上がり方だった。しかし、2018年のロシアワールドカップは、積極的に戦っている。同じベスト16でも違う」
どちらの大会もキャプテンとして戦った長谷部誠はそう明かしている。それは、日本代表の歴史があるからこそ、語れる比較だろう。2002年W杯の初のベスト16は、まさにその楔だ。
「日本も世界で戦える!」
その楔をとっかかりに、日本サッカーの視界は開けた。誰かが道を拓き、さらにその道を広げ、また前に進む。
松田が日本サッカーの歴史の一部になっているのは間違いない。
遠くロシアで、その幻影を見た気がした。