宮沢章夫の80年代 テレビ放送作家としての宮沢章夫
11月9日に放送された『80年代の逆襲「宮沢章夫の戦後ニッポンカルチャー論」』(Eテレ)では、宮沢章夫が80年代カルチャーが後に「80年代は(中身がない)『スカ』だった」と称されたことに反論する形で、3つのキーワードにわけて、80年代とは何だったのか、という講義をしており、とても興味深いものだった。(この番組は11月30日深夜25:00に再放送が予定されているので、見逃した方は是非!)
その3つのキーワードとは「テクノという考え方」「80年代的な笑い」「おたく」。
たとえば「80年代的な笑い」について見てみると、それまで「身体性」の強い笑い(その人が表現しないと伝わらない芸)から、いとうせいこうを始めとする「非身体性」の笑い、つまり「今、こういうのが面白いという提案」し、それを情報化して伝えるという新しい笑いが生まれていった。
この「非身体性」と「情報」が他の2つのキーワードにも共通する80年代の特徴だと宮沢章夫は分析している。
ところで、宮沢章夫は80年代、放送作家としてテレビの裏方の作り手としても活躍していた。
そんな放送作家時代を振り返ったインタビューが『80年代テレビバラエティ黄金時代』(洋泉社)に掲載されている。
それによると知人に紹介されてラジオのハガキ整理を始めたのが宮沢が放送作家になるきっかけだったという。その後、大学で1年後輩だった竹中直人がゲスト出演するシティボーイズのライブのコント作家になったが、同時にテレビの放送作家も務めるようになっていった。
もっとも古いのは81年に始まった大阪ローカルの深夜番組『どんぶり5656』(よみうりテレビ)だという。後に映画監督としても活躍する中野裕之らがディレクターを務め、中島らもも作家として参加していたこの番組で宮沢は最終回に放送された「お父さんはブレードランナー」というコントを書いたという。
85年にはシティボーイズ、中村ゆうじ、いとうせいこう、竹中直人らと伝説のギャグユニット「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」を結成。ちょうど同じ時期に手がけていたのが『パックンたまご!』(テレビ朝日)だ。シティボーイズ、中村ゆうじがレギュラー出演した平日朝の幼児向け帯番組だった。宮沢は、シティボーイズが子どもたちとゲームで遊ぶコーナーを担当。
子ども番組に関わったのは初めてだったが、「大人向けの番組よりも表現するうえで自由があるので、アイデアを考えるのは楽しかった」と宮沢は振り返る。
『パックンたまご!』は半年で終了してしまったが、コアな層からは支持され、山田邦子やテリー伊藤から「『パックンたまご!』みたいな番組をやりたい」などと絶賛されたという。
その結果なのか、宮沢は『パックンたまご!』終了後すぐに『夢のコドモニヨン王国』(テレビ東京)という子ども番組を再び手がけることになる。シティボーイズ、中村ゆうじに加え吹越満がレギュラーに参加。いとうせいこうが「夢のコドモニヨン王国のテーマ」という主題歌(作曲はヤン富田!)を歌った。作家には現在映画監督としても大活躍の三木聡もいた。
放送時間が夜7時だったこともあり、内容は大人も意識した過激な内容で、視聴者からはクレームも来たという。
宮沢のテレビにおける集大成的な作品が『ニッポンテレビ大学』(日本テレビ)内のコーナー「ハイブリッド・チャイルド」だ。
「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」のメンバー全員が出演し、えのきどいちろう、川勝正幸、押切伸一なども参加。演出は後に『女王の教室』などヒット作を撮る大塚恭司だった。
宮沢章夫は88年を最後にわずか7年間でテレビの放送作家からは身を引いた。その期間はあまりに短いが、自由で“新しい”笑いをテレビに持ち込み、濃厚な遺伝子をテレビに植えつけたのではないだろうか。
『80年代の逆襲』で宮沢は最後に90年代に入って80年代を振り返った時の象徴的・決定的の言葉として、岡崎京子の言葉を挙げた。
今、そんな80年代カルチャーが見直されてきている。
逆に、古さを求めることが新しさにつながってきているのかもしれない。