1998年末の日本国債急落を危惧したのが、ルービン米財務長官(当時)。結果として日銀のゼロ金利政策に
運用部ショックを危惧した意外な人物
運用部ショックと呼ばれた1998年11月からの日本の国債急落について危惧した人物がいた。
日本の金融当局者にとって運用部ショックによる債券価格の急落、つまり長期金利の上昇は避け得ないものとの認識が強かった。それは日米の実質金利の縮小をもたらし米国債への日本からの投資が減少する可能性を強めた。
それ以上に日本の生保などが保有する大量の米国債の売却の恐れすらあったのである。それを最も危惧していたのが米国金融当局であり、その当時のトップはルービン財務長官であった。ルービン財務長官の危惧が伝わった場所は、当時とすれば意外なところからであった。
場所はスイスのダボス会議
1999年2月3日に世界経済フォーラム(WEF)の年次総会、通称「ダボス会議」が開催された。いまでこそ知られているが、当時は特に日本の金融市場関係者などがそれほど注目したものではなかった。
これは世界の政官財のエグゼクティブが集う会合であったのである。1999年のダボス会議には、アメリカからはゴア副大統領、ルービン財務長官、サマーズ財務副長官といった政府関係者。そして、ビル・ゲイツやヘッジファンドの総帥ジョージ・ソロスといった大物が参加していた。
日本からは自民党の加藤紘一氏と榊原英資財務官などが出席していた。財界からは日本の大手メーカーの会長社長が多数参加していたものの、日本の政治家にとってはあまり重視していない会合であった。これはただの民間会議だが、サミットやG7とかの公式の会議とはかなり趣の違う会議と言われる。参加者同士が直接顔をつきあわせて討議が出来る場となっていた。そういった意味で特異な世界会議と言われる。
1999年のそのダボス会議で、ルービン財務長官、サマーズ財務副長官と自民党の加藤紘一氏と榊原英資財務官が直接会ったと言われる。サマーズ財務副長官と榊原英資財務官は一緒に机を並べた間柄であった。
その席で米国サイドから円高と日本の長期金利の上昇に懸念を示され、場合によってはさらなる金融緩和といった政策を要求されたのではないかと推測されたのである。
政治家が動揺
これは、それとなく市場の噂となり後に有力新聞でも小さな記事で報道されていた。米国側の話が自民党の加藤氏などを通じて日本政府にもすぐに伝わった。その後の自民党の野中幹事長の長期金利上昇懸念発言などに繋がっていく。
2月4日にはこのダボスでルービン財務長官が日本に対してさらなる金融緩和を求めるコメントが正式に出された。一部報道では、その緩和策のひとつの手段として日銀による国債引き受けもあることを示唆。
2月に入って債券相場はさらに下落ピッチを強めていた。そのため日銀に対する風当たりも強くなってきた。宮沢蔵相(当時)は2月8日には、ツイストオペについて、日銀において考えていただく時期だといった発言をした。この発言を受けて債券先物が急騰し、私はロスカットせざるを得なかったことをいまだに覚えている。
国債引き受け自体にはさすがに言及していないが、日銀に対するプレッシャーはかなりのものがあった。蔵相発言自体はそれをかなり配慮していたのではなかろうか。
当時の自民党の有力者でもある野中氏は日銀が市場から既発債を買い取ることが緊急という発言もした。
米国のプレッシャーにより、政治家まで国債の需給対策についてコメントするようになったが、それまでは2%程度の長期金利は自然であるといった発言もあった。日本の長期金利の上昇に危惧を抱いた大きな理由は米国の事情からであったとみられた。
米国にとっては、アジアの経済よりも、自国の財政のほうが重要であり、日銀による国債引き受けを提唱せざるを得なかったとしても不思議はない。
日銀へのプレッシャー
それで慌てたのが日本政府であったと言えた。その日本政府の慌てぶりを察しての日銀の動きとなった。
2月10日に小渕首相(当時)は、買いオペ増額検討は日銀の専管事項とあらためて発言した。政府は日銀による国債引き受けや国債の買いオペ増額はこの時点であきらめたようであった。
そして2月12日に日銀が決めた政策がゼロ金利政策であった。政府の意向をくみ取って日銀が独自に判断したと思われる。1月の決定会合においても長期金利の上昇が話題にされ国債引き受け等についての審議もあった。何もやらないわけにはいかないという状況に追い込まれたともいえる。
以上のように2月12日のゼロ金利政策決定に関しては「長期金利上昇」がかなり絡んでいたことがおわかりかと思う。日銀は「長期金利」は操作できないものという立場をそれまでとってきた。長期金利を決定するのは債券市場なのであり、為替相場も同様である。
1999年2月12日の金融政策決定会合において究極の金融緩和策といわれるゼロ金利政策を取らざるを得なかったか。それはデフレ懸念というよりは為替、そして長期金利対策であったようにも思えるのである。
この日銀によるゼロ金利政策、さらに大手機関投資家が大量の国債買いを行ったとの観測もあり、次第に「運用部ショック」は収まっていったのであった。