盛山文科相は、奈良教育大学附属小学校を批判するより〝支持〟を表明すべきなのでは?
奈良教育大学附属小学校で学習指導要領に沿った授業が行われていなかった問題で、盛山正仁文科相は1月19日の記者会見で、「大変遺憾に存じております」と述べた。さらに、「この事態を重く受け止め、奈良教育大学の学長から説明を聴取のうえ、学内調査の確実な実施、適切な学習指導を受けていない児童への回復措置等の実施を指示しております」とも続けた。
教育課程を独自に工夫して実施していた学校や教員を、一方的に責める姿勢である。しかし、この問題が発覚する直前に、盛山文科相は気になる発言をしている。
先月の12月31日付の『教育新聞』は、「【盛山文科相に聞く】『先生は子どもの好奇心伸ばして』」というインタビュー記事を掲載しており、そこで学習指導要領について問われた盛山文科相は次のように答えている。
「(学習指導要領が)追加、追加でどんどん増えていくだけなら、限られた授業の時間で全部教えるのは無理だろう。そうすると、今まで丁寧にやっていたものを軽くしたり、場合によってはなくしたりすることも必要になる。また、文科省はベースとなるものを学習指導要領としてお示ししているだけだ。実際には学校の先生や教育委員会の判断になる」
増えるだけの学習指導要領の全部を教えるのは無理で、軽くしたりなくしたりすることも必要で、それを判断するのは先生や教育委員会だ、と解釈できないだろうか。それは間違いだろうか。
間違いでないとすれば、まさに盛山文科相の言っていることを先駆的に実践していたのが奈良教育大附属小学校ということになる。同校の教員は、子どもたちのことを考えて、教員として努力をしていただけなのかもしれない。それは褒められこそすれ、責められることではないようにもおもえる。
少なくとも、盛山文科相は奈良教育大附属小学校の実践を認めてしかるべきである。なにしろ、自分が考えていることを、すでに実践例として示しているのだから。
にもかかわらず、「遺憾」の一言で切り捨てるのはいかがなものだろうか。「遺憾」と口にしたことのほうが、よほど遺憾である。
盛山文科相は、自分の発言に責任をもつためにも、奈良教育大学附属小学校を簡単に切り捨てるのではなく、むしろ支持を表明すべきなのかもしれない。