島へ移住して10年。アロマアーティストが考える、小さな島だからできること。
東京出身の黒沢省吾さん・三穂さん夫妻は、ゆたかな自然とすこやかな食を求め、2012年に一家で天草西海岸へ移住しました。ふたりが居住地として選んだのは、熊本県天草市天草町の高浜地区。ウミガメも産卵に訪れる白砂のビーチ「白鶴浜海水浴場」まで徒歩数分という立地でもあり、かつて“海の家”として使われていたという自宅兼アトリエは常に、寄せては返す波の音に満たされています。月や太陽のリズムを肌で感じ、草木の芽吹きを慈しむ。都心の暮らしと対極にある天草の毎日は、一家にたくさんのギフトをもたらしました。
「都市部にいると自然のなかへ出かけるのにもある程度の時間や準備が必要ですが、ここは家にいても自然を感じられる場所。子どもたちは日常的に土や草や虫と戯れていますし、天草に移住して授かった四男も含め、みんな海が大好きです。夏には家族みんなでビーチに繰り出すのが、わが家の恒例。自然がすぐそばにあるということのありがたさを日々、感じています」と、三穂さんは話します。夫婦で開いたアトリエを「HIGH BEACH」と名付けたふたり。そこには、家族を受け入れてくれたこの土地へのリスペクトがにじみます。
省吾さんの仕事はプロの庭師。すこやかな成長と“美しい自然樹形を保つ”剪定を得意とし、天草の野山にインスピレーションを得ることもしばしばだといいます。その活動の幅は天草・九州にとどまらず、近年は関東でも再び腕をふるうようになりました。
一方、AEAJアロマテラピーアドバイザー・インストラクターの資格を持つ妻の三穂さんは、リゾートヴィラ「五足のくつ」(天草町下田)や、美容室「ura-niwa」(本渡)などでアロマトリートメントやリフレクソロジーを提供しています。
事前予約のみでオープンするアトリエは、省吾さんが手がけるボタニカルインテリアで彩られ、予約限定でさまざまなアロマクラフト体験を提供するほか、たくさんの香りのアイテムも並びます。なかでもひときわ目を引くのが、三穂さんが手がける香りのアイテム。三穂さんは2019年から、「miho kurosawa.」というブランドで、天草の植物を蒸留したアロマ商品や、天草の風土になぞらえたオリジナルプロダクトを展開しています。
天草に移住して10年。節目の年に思うこと。
2022年は、黒沢さん夫妻にとって節目の年。移住してちょうど10年目にあたるだけでなく、この島で小・中・高校時代を過ごした長男が、就職のため上京することになったのです。長男を見送って間もない三穂さんにあらためて話を聞きました。
「移住したばかりの頃は夫がもう一度、東京で仕事をするというイメージもなかったし、まさか息子が上京するなんて思ってもいませんでした。子育てをする上で理想の環境は天草であるという思いは変わりませんが、家族の成長とともに少しずつ考え方や生活スタイルも変わってくるし、子どもにとっては広い意味で“社会を知る”のも大切なこと。息子には偏らず、いろんな考えに触れるなかで自分の生き方や考え方を育んで、どんな状況になっても立て直しができる人になってもらえたらと思います。東京は多様性に触れられる土地。そうした意味では、天草と東京にそれぞれ拠点があって、柔軟にチャレンジできる今の環境はありがたいですね」。
天草へ移住して数年は、食の安心を最優先に田畑で米や野菜づくりに励むなど、自給自足に挑戦した黒沢夫妻。自らの手でつくる喜びと同時に、その大変さを身をもって感じたといいます。
「東京にいる頃は、お店に行けばたくさんの野菜が並んでいて、オーガニックなものを“選んで買う”ことも簡単にできました。でも、薬を一切使わずにつくるって並大抵のことじゃない。植物のなりたちや食の仕組みを知らずに“選択”していた頃の自分を振り返り、傲慢さがあったなと実感しました。今もちょっとした葉野菜は家庭菜園で育てていますが、あとは、近隣の無人販売や直売所などを活用したりもしています。近くのおじいちゃんおばあちゃんたちが薬を使わず上手に野菜を育てているのを見ると、経験の大きさを感じます。そんなことも含め、いろいろなことを体感しながらありがたみを知れた10年でした」と、三穂さんは振り返ります。
「小さな島」だからできること。「天草香育プロジェクト」
「小さな島に来れたことで、さまざまな仕組みを知ることができました。例えば、政治だってそう。東京時代は誰かが動かしているもののなかにいて、自分の声なんて反映されるわけないと感じていたけど、天草では近所に議員さんが住んでいたり、まちの魚屋さんが政治家だったりする。話している内容が、政策のひとつになっていたりもするから、いろんなことを自分ごととして捉えられるようになりました。その分、一票の重みをすごく感じます。情報としてではなく、実体験として結び付けられることが多いのが、小さな島、天草の魅力でもあると思います」
三穂さんはこの10年の「実体験」をもとに、この春、新たな取り組みをはじめました。それが「天草香育プロジェクト」です。そもそも香育(こういく)とは、子どもたちを対象とした「香りの体験教育」のこと。人間の五感のなかでも、香りをとらえる「嗅覚」だけが記憶をつかさどる脳の部位「海馬」に直接的に働きかけるといわれます。潮のかおりや季節の花のかおりに原風景を思い出す、というのはそういう理由。幼少期に良質な自然の香りを体験するということにはどうやら、大きな意味があるようです。
「天草は海も川も山もあって、果物やハーブや野菜などを育てる人がたくさんいます。そうした素材を使いながら、親子で楽しめる香りの体験を届けることで、子どもたちの心と体の成長をサポートできたらと思っています」と語る三穂さん。10年かけて築き上げた生産者とのつながりを生かし、牛深の月桃を使ったハーブチンキや、倉岳町のホーリーバジルを用いた蚊除けスプレー、西平の椿油で作るおたすけバームなど、季節がわりのプログラム(オンライン/リアル)を予定しているそう。小さな島から届く「香りの便り」に期待が高まります。