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「私が馬鹿だから」という母親は、「結愛ちゃんよりも雄大をとった」のか?

千田有紀武蔵大学社会学部教授(社会学)
写真はイメージです(写真:アフロ)

結愛ちゃん虐待死事件で、船戸雄大被告の公判が始まりました。元妻の優里さんも、証言台に立ちました。

衝撃的だったのは、雄大被告の暴力にいいなりになってしまった理由を聞かれて、「私が馬鹿だからです」と答えたことでした。優里さんの公判でも、「私が馬鹿だから」という言葉が頻出していました。雄大被告によるDVで、どれだけ自尊心が低くなっているのかと思います。

お父さんの証言で、優里さんは小学校の時は児童会の会長をやったり、中学校、高校時代は、部活のキャプテンや副キャプテンを務めていたそうです。どちらかというとリーダータイプだったことは、私には意外でした。このような優里さんが、自分のことを「馬鹿だから」「馬鹿だから」と繰り返し語ることは、結愛ちゃんの死について悲しみ、反省を繰り返しているとしても、異常にうつります。

それにしても、優里さんが受けたDVについて語ると、激しい言葉がSNSでも飛んできます。優里さんが身を挺して守るべきだったというのです。それに対して、雄大容疑者についてツイッターで検索すると、最初に出てくる検索ワードは「ハゲ」です。もちろん雄大被告に対する批判もありますが、お母さんに対する激しい叱責に対して、父親への関心がまず頭髪なのかと思うと、脱力せざるを得ません。本当になぜこのような事件が起こったのか、その構造を理解しなくてはならないと思います。

優里被告の公判で検察側が繰り返していた「子どもよりも、雄大を優先させていた」という論理は、「子どもよりも女をとった」とネット上で反復されています。「子どもよりも女をとる」ことがどういうことか釈然と走ませんがしかし、心理的なDVを考慮に入れれば、このように簡単な2択ではないと思います。

優里さんの立場になって、事態を振り返ってみましょう。

優里さんと雄大被告の間には、圧倒的な力の差があります。優里さんの父親も公判で、「大学を出て、…しっかりした子だと、私たちは思っていた」と雄大被告のことを語っています。19歳で子どもができて同級生と結婚した優里さんにとって、雄大被告は年上であり、大学をでて、「都会」から来たひと、そして男性です。そこには何重もの力の差があります。

「馬鹿」な私と、いろいろなことを教えてくれる雄大ーー繰り返される言葉に、優里さんが本当にそう信じていたことは、容易に想像がつきます。

そのうえで、雄大被告に忖度することは、「子どもより女をとる」ことだったのでしょうか?

香川の田舎で、若くしてシングルマザーになった優里さんは、経済的に困窮していたようです。さらに、シングルであることに対する厳しいまなざしもあったでしょう。しかし再婚して、きちんと就職して会社に勤めている大卒の夫をもった優里さんは、結愛ちゃんのためにも「家庭」を作ってあげられたと、ほっとしていたのではないでしょうか。それを本人の打算だと言い切ることは、躊躇いがともないます。世の中の常識に、シングル家庭を「欠損家庭」とみなす眼差しがあるのは否定しがたいでしょう。少なくとも一度の離婚を経た優里さんにとっての再婚は、最初は「子どものため」だとも感じられてもいたでしょう。

また心理的DVを受けて視野狭窄に陥っていた優里さんは、雄大被告の機嫌を取ることは、結愛ちゃんに対する暴力をとめることだと思うのは無理のないことではないかと思います。公然と暴力をとめれば、それ以上の虐待が待っているのですから、雄大被告をなんとかなだめることは、結愛ちゃんを守ることでもあったのです。「本当にかばいたいひとのことを一緒に悪く言って、いじめの加害者に迎合して、いじめを軽くする」という経験をしたことはないでしょうか? ないとしたら、そのひとは「社会的弱者」としての人生を生きたことがないのだと思います。

DVと虐待が複合的に絡まった家庭では、DV被害者が被虐待児の悪口を言って、加害者に同調することは、頻繁に起きます。「思ってもいないことを言って迎合させられること」こそが、暴力の一環であるということもできると思います。

もちろん、優里さんが、逃げたり、離婚できたり、することができればよかったでしょう。しかし児童相談所による結愛ちゃんの保護の時に、「あなたにはあざがありますか」と問われ、離婚を切り出しては雄大被告に叱責され、「2人で(離婚の)合意がないと逃げられない状況と私の中で思ってしま」っていた優里さんには、とても難しいことだったのではないでしょうか。

悲惨な事件であればあるほど、私たちはなんとかできなかったのかと、誰かを責めたくなります。しかしそれとは別に、まずなぜこのようなことが起こったのかもまた、考えなくてはならないと思います。

例えば、地方からはじめて東京にやってきた優里さんにとって、車もない場所で「子どもを連れて逃げる」ことには、かなりのハードルがあったのではないか、といったことを考えていく必要があると思います(それは、責任を軽減することすることとは違います)。

また雄大被告は、優里さんだけでなく、結愛ちゃんにも「ダイエット」をはじめとして、勝手な理想を押し付けていました。妻や子どもを所有物としてみているからです。それが公判で「結愛ちゃんを、人気者にしなければ」という言葉で語られるときに、「インスタ映え」など他者からの賞賛によってアイデンティティを構築している現代社会ならではの感性だと、驚かされます。

結愛ちゃんの味わった地獄を考えたら、DVなんて関係ないという声も多く聞こえます。公判の記録も、涙なしでは読めないときがありますから、結愛ちゃんが気の毒でならない気持ちはよくわかります。しかし、結愛ちゃんはお母さんが大好きで、児童相談所にも「お母さんも殴られている」と必死に訴えていました。結愛ちゃんを死に追いやった責任は、私たちにはまったくないのでしょうか? 第二の結愛ちゃんを出さないために、結愛ちゃんの死を痛ましいと思うからこそ、私たちはなぜこのような事件が起こったのかを、まずじっくりと考え、受け止めなくてはならないと思います。

武蔵大学社会学部教授(社会学)

1968年生まれ。東京大学文学部社会学科卒業。東京外国語大学外国語学部准教授、コロンビア大学の客員研究員などを経て、 武蔵大学社会学部教授。専門は現代社会学。家族、ジェンダー、セクシュアリティ、格差、サブカルチャーなど対象は多岐にわたる。著作は『日本型近代家族―どこから来てどこへ行くのか』、『女性学/男性学』、共著に『ジェンダー論をつかむ』など多数。

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