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【逃げ上手の若君】鎌倉幕府は、いかなる理由で滅亡したのか?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
北条高時腹切りやぐら。(写真:イメージマート)

 7月6日に「逃げ上手の若君」がTOKYO MXで放映された。人気漫画の原作をアニメ化した作品で、主人公は北条時行である。今回は、鎌倉幕府が滅亡した経緯について、詳しく取り上げることにしよう。

 元弘の乱が失敗に終わった後醍醐天皇は、元弘2年(1332)に隠岐島(島根県)に流された。幕府は乱を鎮圧し、後醍醐天皇を流罪にしたので、これで一件落着と思っていたかもしれない。

 隠岐に幽閉された後醍醐天皇は、密かに倒幕のチャンスを狙っていた。元弘2年(1332)11月、大和(奈良県)に潜伏していた後醍醐の子・護良親王が倒幕のために兵を挙げたので、これが大きなきっかけになった。

 翌元弘3年(1333)5月、上野国(群馬県)の新田義貞も倒幕の旗を掲げて挙兵した。こうして各地では、「打倒鎌倉幕府」の機運が盛り上がったのである。

 足利尊氏(最初は高氏。以下「尊氏」で統一)は、もともと鎌倉幕府に属していたが、後醍醐天皇から味方になるよう誘われ、これに応じた。元弘3年(1333)4月、尊氏は鎌倉幕府に反旗を翻し、丹波国篠村八幡宮(京都府亀岡市)で挙兵したのである。

 同年5月、尊氏は京都に攻め込み、六波羅探題を滅ぼした。やがて、諸国の武将は倒幕の軍勢に加わり、大きな勢力になった。上野国で倒幕の兵を挙げた義貞は、幕府と諸所で交戦し次々と撃破したのである。

 元弘3年(1333)5月、義貞は鎌倉(神奈川県鎌倉市)に攻め込み、幕府に総攻撃を仕掛けたが、幕府軍の激しい抵抗もあって、両者は一進一退の攻防を繰り広げた。

 同年5月21日、義貞は鎌倉市中に雪崩れ込むと、幕府の主だった武将や北条一族を次々と討った。結局、時行の父・高時は北条氏の墓所・東勝寺(神奈川県鎌倉市)に逃れ、自刃して果てたのである。

 時行の兄・邦時は、義貞が鎌倉に攻め込んだ際、伯父の五大院宗繁とともに鎌倉市中に潜伏していた。しかし、幕府追討軍による北条一族の残党狩りがはじまると、宗繁は邦時を単独で伊豆山に向かわせた。

 実は、宗繁は邦時を裏切っており、邦時のことを新田軍に密告していた。結局、邦時は逃げる途中で新田軍に捕らえられ、同年5月29日に鎌倉で処刑されたのである。

 鎌倉幕府が滅亡した際、時行は運よく諏訪頼重に救出され、信濃国(長野県)へと逃れたのである。以降の動きに関しては、改めて取り上げることにしよう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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