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東日本大震災から3年ーー。大きな喪失感に苛まれていた時に上皇さま美智子さまがしてくださったこととは?

山崎まゆみ観光ジャーナリスト/跡見学園女子大学兼任講師(観光温泉学)
上皇さまと美智子さまが食した南三陸の海鮮(写真提供「南三陸ホテル観洋」)

東日本大震災から一三年が経ったが、その傷は癒えることはない。 避難所に出向き、床に膝をつき、被災者の声に耳を傾けた上皇さま(当時、天皇陛下) と上皇后・美智子さま(当時、皇后陛下)。 お二人の慰問は、被災地に何をもたらしたのだろう─ ─。

平成二十六(二〇一四)年七月二十二日、上皇さまと美智子さまは太平洋が一望できる 宮城県「南三陸ホテル観洋」にお越しになった。 「南三陸の海に面した沿道は、お二人のお姿を一目見たいと、人で溢れかえっていました。 人口が減っている南三陸で、それは凄い光景でした。警備の方が『予想をはるかに超える 人がいた』とおっしゃっていましたから」と、女将の阿部憲子さんが振り返る。

東日本大震災から三年が経っていた。 「ホテル観洋」の創業者であり憲子女将の父・阿部泰兒さんは昭和三十五(一九六〇)年 のチリ地震を経験し、防災の観点から岩盤の硬い高台にホテルを建てた。そのため東日本 大震災では「ホテル観洋」は建物の下層階の一部被災のみで留まったが、被災した当事者であることに変わりはない。それでも地域の人たちの避難所としてホテルを開放した。

「ホテルを頼って避難されてきた皆様の新しいコミュニティづくりの場として、二年間で 六〇〇回以上ものイベントを開催し、気持ちが引きこもりがちにならないように努めまし た」 憲子女将は当時の人々の心境をこう話す。

「震災から三年が経った頃は、『復興、復旧と言うけれど、現実はそんなに甘くはないな』と思い知らされていました。 ある日突然、生活していた場所が土台しか残らなかった。一家全員が亡くなったところ もある。『亡くなったのがひとりで良かった』なんて会話もありました。けれども朝、『行ってらっしゃい』と見送った家族を突然亡くす哀しみはいかばかりか。大切なものをすべ て失くしたのに、自分は生きている。そんな状況に涙を流すことさえ忘れた人もいました。 時間が経てば解決すると信じていたんです。もう少し楽になるかな、希望が持てるかなって。でも、時間じゃ哀しみは癒えないとわかってきたのがこの頃でした」 無力感にさいなまれていた時に、 「上皇さまと美智子さまがお越しになり、手を振って優しい笑みを見せてくださいました。 住民にとって、何よりもの力になりました」と、憲子女将は感激の面持ちで語る。 この時のお二人の優しさと温かさを憲子女将は決して忘れない。

「私どもでは三陸の海の幸をお召し上がりいただきま した。上皇さまはマグロのお造りを、美智子さまはウ ニを大変喜んでくださいました。宿の女将ということ で、上皇さまと美智子さまと直接お話もさせていただ きましたが、私にとっても大変光栄なひとときでした」

※この記事は2024年6月5日発売された自著『宿帳が語る昭和100年 温泉で素顔を見せたあの人』から抜粋し転載しています。

観光ジャーナリスト/跡見学園女子大学兼任講師(観光温泉学)

新潟県長岡市生まれ。世界33か国の温泉を訪ね、日本の温泉文化の魅力を国内外に伝えている。NHKラジオ深夜便(毎月第4水曜)に出演中。国や地方自治体の観光政策会議に多数参画。VISIT JAPAN大使(観光庁任命)としてインバウンドを推進。「高齢者や身体の不自由な人にこそ温泉」を提唱しバリアフリー温泉を積極的に取材・紹介。『行ってみようよ!親孝行温泉』(昭文社)『女将は見た 温泉旅館の表と裏』(文春文庫)『宿帳が語る昭和100年 温泉で素顔を見せたあの人』(潮出版社)温泉にまつわる「食」エッセイ『温泉ごはん 旅はおいしい!』の続刊『ひとり温泉 おいしいごはん』(河出文庫)が2024年9月に発売

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