「バナナマン」の声
日本の食卓からバナナが消えそうである。日本にとってのバナナは輸入品で、財務省貿易統計(2019年)によると、フィリピンは輸入先として一位で、総量は84万トン、全体の80%を占める。
バナナといえば、私はどうしても思い出す人物がいる。フィリピンの農作人の手元から日本の食卓までバナナが届く過程を追っかけた「バナナと日本人」の著者、恩師の故鶴見良行である。換金作物となり国境を跨いだバナナとアグリビジネスの品格を問う。
フィリピンではないが、私もバナナが育つ国で生まれ子ども時代を過ごした。バナナは基本的にお金を出して買うものではない。勝手に庭になる果物である。100本を優に超えるバナナの一房がいっぺんに熟すために食べ切れず、近所同士で配り合う習慣があったりする。実に限らずバナナの葉っぱも大活躍、弁当箱の代わりをしてくれる。バナナの葉っぱの弁当の思い出もたくさんある。
学校の昼食時間になると、仲間内でテーブルを囲み弁当を広げるが、ここからが日本と違う。こっちだと直ぐに「いただきます」と手を合わせそれぞれで食べはじめるが、スリランカの場合は食べる前にまず決まって自分の弁当のおかずを少しずつ周りの仲間と分け合う。それが終わって初めて食につく。家庭ごとの料理法や味付けが違い、バナナの葉っぱの弁当は、子供にとっての多様性を学ぶ上で大切な教科書である。
いったん実がなったバナナの木は朽ちると、その根っこから新芽が出てきて次の木が勝手に育つ。バナナと人間の間で途切れることのない優しい豊かな関係が続いている。
日本でバナナはその昔、今でいうメロンのような、病気にでもならないと食べさせてもらえなかった贅沢品だった。しかし今ではその面影はなく、人びとはバナナに対して取り立てて有難味を感じているとも思えない。
換金作物となったことで、日本人も遠い国で育つバナナを食べられるようになった。しかしバナナと文化的な結びつきをもつ人々について誰も知らない。寂しいことでもあり、もったいない。
日本人とバナナの文化的側面は全くないわけではない。山口で教員生活を送った私は学生と関門海峡を渡ったところの門司港によく遊びに行っていた。門司は、バナナの叩き売りの発祥の地である。日本がバナナをフィリピンから輸入する前は、植民地下であった台湾から仕入れていた。門司はまさに台湾バナナの荷卸港であった。その名残を受け今でも週末には「バナナの叩き売り」の実演販売が行なわれている。売り手と買い手との温もりのあるやりとりは、れっきとした素晴らしい文化である。
門司港で忘れてはならないのは、バナナマンである。彼は愛と正義のローカルヒーローで、もともとは人間がバナナの縫いぐるみ被っていたが、今では銅像になっている。銅像のバナナマンは、片手を腰に当て、片手が海の向こうを指差している。全身にバナナの衣装をまとっているが、顔だけが露出している。その表情は険しい。私は、この顔と海の向こうを指差すバナナマンを見るたびに、何も考えずにバナナを食べるのではなく、産地の人びとにも思いをはせて欲しいと心の中で叫んでいるような気がしてならない。今回のバナナショックを機に食の豊かさについて改めて考えたい。