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センバツ回顧 21世紀唯一の記録……2004年、ダルビッシュがノーヒット・ノーラン

楊順行スポーツライター
2013年には、MLBで9回2死まで完全試合を続けたこともあるダルビッシュ(写真:ロイター/アフロ)

「ボールの伸びがすごい。変化球も全部キレている。これは、絶対に打たれないぞ」

 試合前。東北(宮城)・松岡竜也は、ブルペンでダルビッシュ有(現パドレス)の投球を受けて、そう感じたという。

 2004年3月26日、第76回選抜高校野球大会第4日第2試合。優勝候補の一角・東北の初戦の相手は、熊本工だった。ダルビッシュは、松岡の予感どおり、初回からエンジン全開で飛ばした。リラックスしたフォームから、糸を引くような回転のいいボールが森和樹のミットに吸い込まれる。最速147キロのまっすぐに、タテに割れるカーブ、スライダー、シュート、フォーク……力だけに頼るのではなく、持ち前の投球術を駆使して、3〜4回は6者連続三振だ。

 5回が終わり、2対0とリードしてのグラウンド整備のインターバルで、当時東北を率いていた若生智広監督は気づいたという。相手打線はノーヒットじゃないか。これはひょっとしたらひょっとするぞ……。

緊迫戦こそゾーンに

 快投は続いた。6回も、三者凡退。一方熊本工の左腕・岩見優輝(元広島)の投球もすばらしい。2回に2点を失ったが、4回以降はヒットも許さない。息の抜けない投手戦だ。だが、そういうときこそ集中するのが好投手。2003年夏のダルビッシュが、平安(現龍谷大平安・京都)の服部大輔と延長11回、1対0という緊迫の投手戦を演じたように、だ。その試合、ダルビッシュが2安打15三振を奪えば、服部も17三振の山を築いていた。

"ノーノー"は続く。7、8回の熊本工は、いずれも三者凡退だ。2対0のまま迎えた9回裏、熊本工は一番からの攻撃だった。そして……三振、三振、最後の打者はセカンドライナー。ダルビッシュは大会史上12人目、10年ぶりのノーヒット・ノーランを達成することになる。出した走者はエラーと2四球の3人だけ。129球、12三振のあっぱれな投球だった。ただ、本人は素っ気ない。

「たまたまできただけで、なんとも思わないです」

 ダルビッシュは、その前年のセンバツから怪物投手と呼ばれていた。加えて、モデルばりのスタイルと端整な顔立ちだから、ギャル人気もすごい。開会式後には、群がるファンにもみくちゃにされ、握手を求めて腕を引っ張られる。おかげで右わき腹を痛めてしまい、浜名(静岡)との初戦は4安打1失点、2対1で突破したものの、最速は143キロ止まりと本調子にはほど遠かった。翌日病院に行くと、「右棘下筋痛で全治2週間」の診断。花咲徳栄(埼玉)との2回戦は、6回12安打9失点でKOと、さすがに本来の力を発揮できなかった。

 その夏、第85回全国高校野球選手権にもコマを進めた東北だが、筑陽学園(福岡)との初戦、ダルビッシュは腰痛を訴えて2回2点で降板。勝ちはしたものの、若生監督は「センバツは、不慮のアクシデント。ダルビッシュはどうも、甲子園と相性が悪いんじゃないか……」と感じた。近江(滋賀)との2回戦でも、ダルビッシュは立ち上がりに1点を奪われ、イヤな予感がますます募る。ただそこから、人が変わったように要所を締めた。合計10安打されながら、1点だけに抑える完投勝利だ。3回戦は、前述の投手戦で平安を制し、東北は1985年以来のベスト8進出。ちなみに、そのときのエースが佐々木主浩だ。

 東北はさらに光星学院(現八戸学院光星・青森)、江の川(現石見智翠館・島根)を撃破し、決勝の相手は常総学院(茨城)。先発は、ダルビッシュだ。ヒザと腰に炎症を起こしかけ、準々決勝では先発を、準決勝では登板を回避したから、49球を投げた準々決勝から中2日、満を持してのマウンドだった。東北は2回、2点を先制する。手負いのダルビッシュも、平安戦のデキからははるかに落ちるが、3回まで2安打無得点に抑えていた。

 東北勢初の優勝旗が、だんだん現実味を持ってくる。だが、4回に逆転されると、8回にも自らの暴投に守備のミスも重なってさらに1点。これが重くのしかかり、結局2対4。大旗はまたも、白河の関を越えることはなかった。それでも若生監督は、「ダルビッシュが人目をはばからずに大泣きしたことがうれしかった」という。突出した才能があるだけに、どこかクールで、孤高の存在に見られていたダルビッシュ。それが人前でナマな感情を見せ、敗戦を一身に背負い、上級生に対する責任感から涙した人間的な成長が、うれしかったのだという。

甲子園との相性が……

 甲子園後。ダルビッシュがキャプテンになった新チームも、敵なしで勝ち進んだ。宮城の秋の県大会を優勝し、進出した東北大会でダルビッシュは、初戦は救援登板、準決勝、決勝では連投。2試合15回を1失点で、女房役の森和樹は、こんなふうに感じたそうだ。

「スピード、タマの伸び、キレ……とにかく、すごかった。有の手からボールが離れた瞬間に、“顔のあたりかな”と思ってミットを構えたら、完全に打者の頭の上を通ったり。低めのタマもおじぎしないから、ミットを下げる必要もなく、勝手に飛び込んでくる感じでした。変化球も曲がり方がハンパじゃなくて、慣れるまではとにかく大変だった」。結局東北大会4試合で東北は、25得点2失点。横綱相撲で前年の春から3連覇を果たし、翌04年のセンバツ出場はほぼ確定した。

 だが、明治神宮大会の済美(愛媛)戦。先発したダルビッシュは、タマが走らずに集中打を浴び、野球人生初めてのコールド負け(7回、0対7)を喫してしまう。新チーム結成以来23連勝のチームが、初めて喫した黒星だった。そして、04年春。初戦でダルビッシュが大記録を達成し、勝ち進んだ東北は準々決勝で済美と対戦。終始優位に試合を進めながら、9回によもやの逆転サヨナラ3ランを浴びて敗れることになる。肩に不安を抱えていたダルビッシュは登板を回避し、その非情の弾道を、マウンドではなくレフトの守備位置で見守るしかなかった。

 今度こそ全国制覇、と進出したその夏の甲子園。千葉経済大付との3回戦は、勝利目前の9回2死から、ぬかるんだ土に足を取られた野手のエラーで1対1に追いつかれ、延長で敗退……ダルビッシュが4回出場した甲子園で残した記録は、12試合92イニングを投げて7勝2敗、防御率1・47、三振が87。圧巻である。それでも……日本一に手が届かなかったのは、若生監督が感じた通り、甲子園との相性が悪かったのかもしれない。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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