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南フランスの小さな田舎町で起こった大事件

園田寿甲南大学名誉教授、弁護士
CIA本部(写真:ロイター/アフロ)

■はじまり

 冷戦時代の1951年8月16日、南フランスのポンサンテスプリ(Pont-Saint-Esprit)という人口1万人ほどの小さな田舎町で、奇妙な〈事件〉が起こった。

 300人あまりの住民が突然、嘔吐や頭痛に襲われ、中には幻覚を訴える者、自傷行為や自殺行為に走る者さえ現れた。一時的に精神に異常をきたす者も少なくなかった。7名が死亡し、46名が精神科病院に収容された。

 当初、カビの一種であるエルゴット菌に汚染された小麦粉による、広域的な食中毒だろうと思われた。

 エルゴット菌とは、日本語では「麦角(ばっかく)菌」といい、麦や牧草などの穂の部分に黒い爪のように取り付くカビである。エルゴット菌に感染したライ麦パンを食べると、通常二つの症状が現れる。最も一般的なものは、動脈の収縮による手足の耐え難い痛みで、これは末端組織の死(壊疽=えそ)につながる。他に、幻覚、錯乱、昏睡、最悪の場合には心不全や呼吸困難によって死亡する例も少なくない。これらは古くから「麦角病」として怖れられてきた。麦角病の被害はすでに紀元前7世紀頃の古文書にも見られ、ペストやコレラとともにヨーロッパの人びとに猛威をふるい続けた。幸いなことに稲はエルゴット菌に強いため、日本ではほとんど存在しない。

 症状と規模から、だれもがこの麦角病による食中毒だと思った。

麦角菌に汚染された黒い麦(by Wikipedia)
麦角菌に汚染された黒い麦(by Wikipedia)

出典:Wikipedia

■隠された陰謀

 ところがその後、ジャーナリストのハンク・アルバレリが1953年に起きた〈フランク・オルソン殺害事件〉を調べているうちに、偶然、南フランスの〈事件〉につながる重大な文書を発見した。

 オルソンは、アメリカの細菌学者であり、米国陸軍で生物兵器の研究に従事していた。1953年11月28日の午後2時頃に、彼は宿泊していたペンシルバニア・ホテルの窓から飛び降りて歩道に激突したのだった。政府は彼の死を自殺と説明したが、不審な点はいくつもあった。

 アルバレリが発見した文書とは、オルソン殺害事件を調査したロックフェラー委員会の報告書だったが、その226頁に次のような記述があった。

「1953年11月19日、フォート・デトリック(注:米国陸軍生物兵器研究所)とCIA(注:米国中央情報局=諜報機関)職員との定期的な会合で、CIA職員がオルソン博士の飲み物にLSDを入れた。」

 19日からの数日間、オルソンは異常な行動を取り続けた。CIAは彼をメリーランドの精神科病院に入院させるつもりだったが、その途中にホテルの窓から飛び降りたのだった。真相は晴れないままだったが、1975年にフォード大統領とCIA長官ウイリアム・コルビーはオルソンの遺族に会い、死についてのCIAの関与を認め、正式に謝罪している。

 問題はオルソンの死の理由である。

 実は、オルソンとCIAのエージェントは1951年8月にポンサンテスプリに滞在しており、例の〈事件〉に関与していた疑いが濃厚であるというのだ。それはLSDが人びとの行動にどのような影響を与えるかの人体実験であったという。そして、オルソンがこの極秘事項を外部に漏らしたために、彼はCIAによって毒殺されたというのである。

Hank Albarelli - A Terrible Mistake - YouTube

■真相は?

 飛躍した推論のように見えて、南フランスの〈事件〉へのCIAの関与が有力視されているのは、1947年の設立以来、CIAが国防総省とともに、捕らえた敵のスパイに与える「真実の薬」(自白薬)の製造など、マインドコントロール技術の開発に本気で取り組んできたからである。

 まさに冷戦時代の産物の一つである。

 朝鮮戦争(1950-1953)では、北朝鮮の捕虜になった米軍兵士の中に薬漬けにされ洗脳されたと思われる者が何人もいたことから、CIAの中にソ連がマインドコントロール薬を開発するのではないかという危機感も高まっていた。CIAも北朝鮮人捕虜を対象にマインドコントロール薬の実験を行っていた。それは、「MK-ULTRA」のコードネームで呼ばれた極秘計画であり、1950年代初めから1960年代末まで行われていた。1973年に当時のCIA長官リチャード・ヘルムズが密かに関連文書の破棄を命じたものの、かろうじて残されていた数枚の文書が1975年に連邦議会において公開されて、極秘計画の一端に光が当たった。

 MK-ULTRAの中には、非殺傷性の無力化剤で、大勢の人びとの意識を混乱させるような薬物の研究開発もあった。LSDはそのために期待されていた薬物の一つだった。その企画はまさに例の〈事件〉を思わせるような内容である。実際、1950年には、CIAはニューヨークの地下鉄でLSDの噴霧実験を行っていたし、LSDをCIA職員や軍人、医師、妊婦、精神障碍者らに事前の同意なしに投与したことも記録されている。

 これらの情況証拠から、南フランスの例の〈事件〉に関するCIA関与説は、一見すると陰謀説と思われるような内容が信憑性を帯びて、現在ももっともらしいと考えられているのである。

■非殺傷武器としてのLSD

 LSDは、広い意味で「幻覚剤(hallucinogen)」の一つに分類されている。〈hallucinogen〉という言葉は、ラテン語の〈alucinari〉(心をさまよう)に由来するが、幻覚剤と呼ばれる物質に対する人間の反応の複雑さを表現しきれてはいない。LSDは、外部的な参照を失ったせん妄状態と呼ばれる、独特な精神的錯乱を引き起こすと言われている。1950年代に〈Psychedelic〉(サイケデリック)という言葉が「心を吹き飛ばす」という意味で創られ、この呼び方が広く支持を受けた。

 「心を吹き飛ばす」現象が発見されたのは、まさに偶然だった。1943年、スイスのサンド製薬会社(現ノヴァルティス社)の研究員であったアルバート・ホフマンが、新しい心臓刺激剤を開発していたときに、5年前に自らが分離した化学物質の微量を誤って摂取してしまった。すると、数時間後に彼は夢のような快楽の中にいたのである。彼はこの驚くべき体験を化学的に追究し、サンド社は1949年にLSDという名で発売した。LSDの発売はたちまち医療的な奔流となった。1950年代には欧米で10万人を超える患者がLSDの投与を受けている。適応症は、うつ病、不安神経症、強迫性障害、アルコール依存、神経症、原因不明の身体症状、疲労感、慢性疼痛などであった。

 このようなLSDの効能に強い関心を寄せる機関があった。CIAである。

 CIAは、LSDが敵によって洗脳された者の脳を容易に再プログラミングする化学物質ではないかと考えた。MK-ULTRAに沿ったテストでは、諜報員やその他の人びとに、事前の知識や同意なしにLSDが投与された。その結果、長期にわたる精神の不調に陥った者が窓から身を投げ、悲劇的な結果を招いたことが何例も記録されている。

 LSDは、1968年に連邦政府によって犯罪化されるまでは、管理された医療環境で使用され、あくまでも精神を拡張する合法的な治療薬であった。したがって、LSDの無節操な投与を現在の頭で評価することは適切ではないが、時空のゆがみをもたらす化学物質は完全に安全だとはいえないだろうという意見は当時からあった。

 しかし、LSDの犯罪化から半世紀が経過した今も、サイケデリックの安全性、有用性についての医学的および法政策的評価は定まってはいない。LSDの治療的価値を示す新たな医学的知見に基づいて、LSDの厳格な犯罪化に異議を唱える人びとも増えてきている。

 さて、オルソンとCIAは南フランスの小さな田舎町で起こった〈事件〉に本当に関与していたのだろうか、それともそれは単にエルゴット菌に汚染された小麦粉による広域食中毒だったのか、決定的な証拠はなく今も分からない。

 LSDの身体的加害性は実はそれほど強くはなく、LSD単体の摂取による死亡例はきわめてまれであるという最新の研究から判断して、〈事件〉はエルゴット菌による大規模な食中毒だったと断定している記事もあるが、その真相解明は、LSD犯罪化の政治的な意味をめぐる論争とともに、今も続いている。(了)

(注)

  • アメリカでは現在も、LSDは1970年の規制物質法において、もっとも厳しい〈スケジュールⅠ〉、つまり、濫用の可能性があり、かつ医学的用途のない薬物に分類されている。
  • 日本では、LSDは麻薬及び向精神薬取締法(1990年)によって規制され、輸出入、施用は1年以上10年以下の懲役、譲受、所持、使用は7年以下の懲役となっている。営利目的の場合は、さらに刑が加重されている。

【参考文献】

  1. Dessa K.Bergen-Cico;War and Drugs(2012)
  2. Lukasz Kamienski;Shooting Up-A History of Drugs in Warfare(2012)
  3. Philip Robson;Forbidden drugs 3E(2009)
甲南大学名誉教授、弁護士

1952年生まれ。甲南大学名誉教授、弁護士、元甲南大学法科大学院教授、元関西大学法学部教授。専門は刑事法。ネットワーク犯罪、児童ポルノ規制、薬物規制などを研究。主著に『情報社会と刑法』(2011年成文堂、単著)、『改正児童ポルノ禁止法を考える』(2014年日本評論社、共編著)、『エロスと「わいせつ」のあいだ』(2016年朝日新書、共著)など。Yahoo!ニュース個人「10周年オーサースピリット賞」受賞。趣味は、囲碁とジャズ。(note → https://note.com/sonodahisashi) 【座右の銘】法学は、物言わぬテミス(正義の女神)に言葉を与ふる作業なり。

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