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日大アメフト問題に見る結果主義の歪み。30年前ならメッシは存在しなかった?

小宮良之スポーツライター・小説家
タックルをかいくぐり、突進するメッシ(写真:ロイター/アフロ)

 今月6日、アメリカンフットボールの日本大と関西学院大の定期戦で、日大の守備選手が関学大のQBに悪質なタックルをして負傷させたことが大きな問題となって、波紋を呼んでいる。

「1プレー目で(相手QBを)潰せば(次から試合に)出してやる」

 監督やコーチから反則の指示があったことが、日大選手の会見によって明らかになった。実際、プレーと関係ない場面で後ろからタックルする映像が残る。その残忍さに、目を背けるほどだ。

 プレーした選手以上に、それを指示したとされる指導者たちに、批判の声が高まっている。反則をした選手が、卑劣なタックルを全面的に謝罪した一方で、日大の組織としての対応が後手に回っているからだ。

「勝てばいい」

 結局は、短絡的な結果主義がアメフト界全体にまで大きなダメージを与えることになったとも言える。「壊せ」「潰せ」。そうした言葉自体は、接触スポーツでは実は珍しいことではない。しかし、それがエスカレートしてしまった。本当に、誰かの生命を脅かし、選手生命を削るなど、決して許されることではない。

 ただ一方、勝負事のスポーツ競技は、厳しく観察しないとこうした行為が出てくる恐れがある。

マラドーナの足をへし折る

「30年前だったら、メッシは存在しなかったかも知れないよ」

 それは世界最高のサッカー選手、リオネル・メッシについて取材していたときに聞いた言葉である。

 90年代前半まで、攻撃の選手は今のように守られていなかった。エースプレーヤーは相手チームの"エース殺し"から狙われる。足を削られ、肘打ちを食らうなど日常茶飯事。必然的に、ケガが多くなった。

 80年代当時、FCバルセロナに所属していたディエゴ・マラドーナは、足首を無残に破壊されている。チャンスでもないシーンで、突如、暴力的タックルを受けた。これによって、長く戦列を離れることになっているのだ。

プレーが可視化されにくかった時代

 aplastar(ぺしゃんこにする)、machacar(潰す)、matar(殺す)という物々しいワードが、当時のロッカールームでは横行していた。もっとも、これは今でもそこまで過激な表現ではない。相手のプレーを潰す、相手の良さを殺す、というところで抑えられている限りは、だ。

 しかし、当時はたがが外れやすかった。プレーが映像によって可視化されていなかったのはあるだろう。十分にプレーを検証できず、たとえ映像があったとしても、カメラの台数が少ないため、すべてを明らかにすることはできなかった(Youtubeなどで拡散され、気軽に見られる時代ではない)

 卑劣極まりない反則を受けたアタッカーたちも、泣き寝入りするしかなかったのである。1950年代、ラディスラオ・クバラもバルサの英雄的選手として名を馳せた。しかし度重なるタックルを受け、次第にプレーの輝きを失い、その時代は長続きしていない。

 当時のタックルは悪辣を極めた。「勝つためには潰せ、なにが悪い?」とチームとして過激になっていった。たとえ反則で一人退場になったとしても、絶対的エースを潰せばチームとして得だ、と。「男として一対一に負けるのは恥辱」というような考え方も根強く、追い込まれたディフェンスが膝をめがけて足を振り上げた。どんな名手も膝への蹴りは避けられない。

 今なら守備者は数的優位を作って、どうにか侵入経路だけを防ぐなど次善策をとるのだが・・・。

「30年前だったら、メッシは存在しなかったかも知れないよ」

 実際、その通りかも知れない。

結果主義の怖さ

 10年ほど前、思い切って聞いてみたことがある。

―あなたは本当に、マラドーナの足をへし折る気でタックルしたんですか? それとも、不可抗力だったのか? あるいは、チームの指示だったのか?

 当時、スペインの2部で監督をしていたその人物は、肩を竦めるだけで答えることはなかった。

 スポーツはしばしばチームの勝ち負けのみで評価される。

「勝つためなら手段を選ばない」

 結果、その考え方が一部の人の間でエスカレートし、当時は多くの選手を壊すことになった。しかしそれは幸せな勝利ではない。危険なタックルをした選手も相当、自責の念に駆られるからだ。

 2001年、ジオバネッラというブラジル人MFが、ダービーマッチで1人の選手の膝にタックルをしかけ、壊している。これは故意ではなかった。ジオバネッラ自身、すぐに謝罪し、ピッチを後にし、両者は和解した。しかし1人の有力選手のキャリアを傷つけた罪は重く(その後は代表から遠ざかる)、ジオバネッラはその十字架を背負ったようにそれまでの輝きを失った。そして2004年にはドーピング検査で陽性反応を受け、無実を訴えるも届かず、事実上、引退を余儀なくされている。

 選手は純粋なだけに、たとえ故意でなくとも、罪を抱え続けるものなのだ。

サッカー界の自浄作用

 今や暴力的なタックルは許されない。何度となくスローモーションでテレビで流され、その行為をした選手は世界中から糾弾を受ける。なにより、サッカー界の自浄作用により、暴挙を制せられるようになった。

 世界最高峰のサッカープロリーグ、スペインのラ・リーガだが、時代の流れで健全になっている。これにはテクノロジーの進化も関係しているだろう。しかし、一番は「いいプレーがしたい」という選手と「いいプレーが見たい」というファンが、競技を正しい方向に導いたのだ。

 もし今、メッシ、クリスティアーノ・ロナウド、アンドレス・イニエスタを故意にケガさせたりしたら――。

スポーツライター・小説家

1972年、横浜生まれ。大学卒業後にスペインのバルセロナに渡り、スポーツライターに。語学力を駆使して五輪、W杯を現地取材後、06年に帰国。競技者と心を通わすインタビューに定評がある。著書は20冊以上で『導かれし者』(角川文庫)『アンチ・ドロップアウト』(集英社)。『ラストシュート 絆を忘れない』(角川文庫)で小説家デビューし、2020年12月には『氷上のフェニックス』(角川文庫)を刊行。他にTBS『情熱大陸』テレビ東京『フットブレイン』TOKYO FM『Athelete Beat』『クロノス』NHK『スポーツ大陸』『サンデースポーツ』で特集企画、出演。「JFA100周年感謝表彰」を受賞。

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