【九州三国志】忠義を貫いた吉弘統幸!戦乱の世に挑み続けた、大友家最後の将
豊後国の戦国大名・大友氏の家臣、吉弘鎮信の嫡男として生まれた吉弘統幸。
幼名を松市太郎といい、のちに統運、そして統幸と改名しました。
天正6年(1578年)、耳川の戦いで父・鎮信が戦死すると家督を継ぎ、衰退する大友家を支えるべく忠義を尽くします。
豊後の屋山城を拠点とし、主君・大友義統からの要請で城を堅固に修築。
田原氏の反乱や下毛郡での戦闘において功績を挙げ、大友家再興のため奮闘しました。
天正14年(1586年)の戸次川の戦いでは、大敗する大友軍を救うため殿軍を務め、鉄砲や弓、槍を駆使した三段構えの陣を指揮。
島津軍の追撃を食い止め、義統を無事に退却させるなど、その武勇と冷静な指揮ぶりで大きな役割を果たしました。
しかし、大友家は文禄の役で義統の失態により改易されます。
統幸は黒田如水に招かれるも、従兄弟の立花宗茂の下へ身を寄せ、慶長の役では立花軍の一翼を担いました。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こると、統幸は旧主・義統に従います。
義統が細川家の杵築城を攻めると、統幸は戦術の妙を発揮し黒田軍を相手に優位に戦を進めました。
石垣原の戦いでは釣り野伏せで敵軍に大損害を与え、自らも槍を振るい数多くの首級を挙げましたが、如水本軍の到着を恐れる大友勢の士気は上がらず次第に劣勢に。
統幸は最後の突撃を決意し、わずか30余騎を率いて敵陣に切り込みました。
そして「七つ石」の地で奮戦し、自ら井上之房に討たれる形で壮絶な最期を遂げます。
その死によって大友軍は瓦解し、義統は降伏。
統幸の辞世の句「明日は誰が草の屍や照らすらん 石垣原の今日の月影」は、その覚悟と誇りを物語っています。
統幸の死後、遺族は熊本藩に仕え、その魂は大分県別府市の吉弘神社に祀られています。
戦国の乱世に生きた彼の武勇と忠義は、今も語り継がれる伝説です。