仏教の戦争責任② 世界最大の梵鐘が消えた日
太平洋戦争が始まると、圧倒的に不足する軍用資材を補う「金属回収」の主たるターゲットに、各地の寺院がなった。その最大の犠牲になったのが、梵鐘である。
慶長年間以前(1615年以前)の文化的価値のある、わずかな鐘を除いて、4万7000口(全体の9割以上)もの梵鐘が武器になっていった。その中に、大阪の四天王寺にあった世界最大の梵鐘も含まれていた。
ほとんどの梵鐘が消えた
「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり」
平家物語の冒頭にも描かれているように、梵鐘は寺院(精舎)を象徴する仏教アイテムである。だが、近年は鐘を撞かせてもらえるお寺が本当に少なくなった。近隣からの「苦情」のせいだ。
除夜の鐘も「やかましくて寝られない」とのクレームで、中止を余儀なくされるケースも出てきている。都市化によって「地域の寺」の概念がなくなってきているのは、残念なことだ。
しかし、寺の鐘の音が響く世の中は、平和である証なのだ。なぜなら、戦時下では地域に寺の鐘が響くことがなかったから。本稿では「寺の鐘」と「戦争」との関連性について述べたいと思う。
意外に思えるが、両者はとても密接な関係にある。各地の寺院と戦争との関わりを、今に伝えるのが各地の寺の梵鐘だ。
各地の名刹・古刹を訪ねると、鐘楼堂に大きな梵鐘が吊り下げてある。文化財に指定されている名鐘・古鐘が下がる寺もある。
しかし、梵鐘そのものがない寺は意外に多い。なかには鐘楼堂はあるが、なぜかそこに鐘が吊られていないケースもある。
その理由の大半は、戦時中の金属供出で失われてしまったからである。
金属供出とは、銃器や軍艦などの製造のために金属製品を差し出すことだ。日本は金属資源に乏しく、資源の輸出規制を受けると武器を製造できなくなる。
仏具を兵器に
時代を日中戦争下にあった1938(昭和13)年まで遡ってみたい。
同年、国家総動員法の発令と同時に、国内の物資は国家によって統制させられることになった。金属供出は翌1939(昭和14)年2月ごろから「特別回収」という名目で、各地で始まった。しかしながら、当時の日本の戦局はさほど切羽詰まった状況にはなく、ベンチや灰皿などの15品目に限られていた。
ところが1940(昭和15)年9月、米国は屑鉄などの対日輸出禁止措置に踏み切る。この経済封鎖に、日本政府は焦り出す。
日米開戦、すなわち真珠湾攻撃が始まる4カ月前の1941(昭和16)年8月。国家総動員法に基づき、金属類回収令が公布される。これによって強制的に金属製品が回収されることになった。
最初は、工場などでの金属回収が主であった。だが、そのうち一般家庭も対象になっていった。門扉をはじめ大工道具、ベーゴマなどが町内会を通じて回収された。だが、軍需を満たすほどには集まらなかった。
1942(昭和17)年5月、内務省や文部省、商工省は学校や宗教施設(寺院や神社、キリスト教の教会など)などの公共施設が保有する「不要不急の金属」を目当てにし、拠出させる通牒を出す。1943(昭和18)年には、商工省の中に金属回収本部が設置され、より徹底的に金属回収が進んでいく。
二宮尊徳も兵器に
全国の学校では、たとえば二宮尊徳像がこの時、金属製から石像になっている。現在の二宮尊徳像の多くが銅像ではなく、石像なのは戦時下の金属回収のせいともいわれている。たとえば、東京都目黒区立田道小学校の二宮尊徳像の台座には、「昭和十九年金属回収令に依り供出せし為石像にて再建す」と書かれている。
初代校長や企業経営者の銅像、あるいは顕彰碑の類は9割以上が供出されたという。
有名なところでは、渋谷駅前の「忠犬ハチ公像」が回収されている。ハチ公像は秋田犬ハチの生前の1934(昭和9)年に建てられているが、終戦前年の1944(昭和19)年に回収。再び作り直されたのは1948(昭和23)年のことだ。現在のハチの像は、2代目である。
また、野球場の鉄柵、不要不急の鉄道の線路、車両などが回収された。大阪のシンボルであり大阪人のアイデンティティでもある通天閣も、1943(昭和18)年に解体されている。現在の通天閣はハチ公像と同様、1956(昭和31)年に再建された2代目である。
筆者が暮らす京都・嵯峨近郊でいえば、愛宕山鉄道(嵐山―愛宕駅間、平坦線とケーブルカーで構成)が回収によって廃線になっている。山頂近くの愛宕駅周辺には、スキー場や遊園地、観光ホテルなどのリゾート施設があったが、それも閉鎖され、今では一部が廃墟になっている。
金属回収によって台座だけが取り残され、戦後、その台座を使って現代アートや平和を象徴する裸婦像などが据えられたりしているケースも少なくない。
この不要不急金属回収の通牒を受け、各宗派は各地の教務所を通じて末寺に通達を出す。滋賀県高島市今津の西福寺には『寺院、教會等ニ對スル金属類特別回収ノ件』と題する通達が1942(昭和17)年5月26日付で残されている。
以上のように、寺院や神社、教会などの宗教施設が保有する金属はことごとく、回収対象になった。こうして、寺院が保有する梵鐘や半鐘、鰐口、伏鉦(ふせがね)などの金属製宗教用具が消えていったのである。だから、近世の名工の手による仏具は、ほとんど今に伝わっていない。
一部の古刹に、歴史的、美術的価値を帯びている金属製品がわずかに残されている。
例えば梵鐘でいえば、日本最古のものは京都・妙心寺蔵(国宝)のもので698(文武天皇2)年の鋳造である。現在、古梵鐘のうち14口が国宝、116口が重要文化財の指定を受けている。
回収から逃れた梵鐘は当時の国宝、重要美術品に指定されているもののほか、「慶長年間以前(1615年以前)製造」が対象だった。
その際に戦前の梵鐘研究の大家、坪井良平の論文『慶長末年以前の梵鐘』が参考にされ、論文に記載の400口の古梵鐘が供出を免れたとされている。坪井良平が論文を書いていなければ、貴重な梵鐘がさらに消滅していた可能性がある。
また、皇室が寄進したものや、菊の御紋入りなど皇室に関係する鐘や、慶長年間より新しくても美術的な価値が高いとみなされたものも一部、供出を免れた。
「国宝級」が溶鉱炉に消えた
それでも各地の寺院が保有する大方の梵鐘は供出されていった。梵鐘は戦前には約5万口あったとされるが、現在、江戸時代以前の鐘は3000口ほどしか残っていないとされている。
なかには、精査されずに「慶長年間以前の梵鐘」も少なからず含まれていたとみられる。たとえば、島根県明教寺(1556年)や同県宝珠寺(1574年)の梵鐘だ。
浄土真宗本願寺派総合研究所の調査報告書(新田光子・渡辺慶子『宗門寺院と戦争・平和問題調査報告』)では、同宗の覚明寺(滋賀県野洲市)の住職の談話が紹介されている。
「300年以上前に鋳造され、当時の住職が一世一代をかけて迎えた梵鐘ということで、文化財価値の観点から供出することを免れる予定でしたが、周りの寺院が梵鐘を供出しているのに当寺だけが免除されるのはしのびないということで、昭和16年12月8日に供出。戻ってはきませんでした」
梵鐘の供出に際し、各寺院では「撞き納め式」が厳修された。召集を受けた兵士と同じように、梵鐘には赤いタスキをかけられた。清酒や赤飯が梵鐘の前に供えられ、万歳三唱が行われた。最後は住職によって撞き納められ、各地の梵鐘は“出征”していったのである。
坪井良平は著書『梵鐘と古文化 つりがねのすべて』(大八洲出版、1947年)の「はしがき」の中でこう述べている。
『日本の梵鐘の9割以上が、この戦争で永久にその姿をこの地上から没して仕舞った。実に惜しいことをしたものである。その内には、単に鋳工品としてみれば、消えても惜しくないものもあったにはあったろうが、その一つ一つが、その製作された時代と作った人と、そのあった土地とその土地に住む人とに、それぞれのゆかりを持っていたことを思うと、どれ一つとして惜しくないものはない訳である。殊に供出を急いで充分調べもされずに溶解されて仕舞ったものの中に、鎌倉時代に遡るものさえあったことを知るに及んで(知られていないものでは更に古いものがあったかも知れないが)痛惜の情の一層切なるものが感ぜられる』
次に、金属供出に協力した寺院の実例をみていこう。
大阪の四天王寺では世界最大の梵鐘が回収されていた。高さ8メートル近い大梵鐘が鋳造されるも、わずかその30年後には解体された。その鐘楼堂が現在では英霊堂として残されている。
四天王寺の巨大梵鐘
四天王寺は593(推古天皇元)年、聖徳太子が建立した日本初の官寺だ。仏教の受容を巡って蘇我氏と物部氏との最終決戦を前に、蘇我氏側についていた聖徳太子は、「この戦いに勝利したあかつきには、四天王を安置する寺院を建立し、この世のすべての人々を救済する」と誓願を立てる。蘇我氏は勝利し、その誓いを果たすために聖徳太子が建立したのが四天王寺だ。つまり、日本に仏教の種が播かれたその場所に建つのが四天王寺である。日本仏教における聖地中の聖地が、戦争に翻弄されたのである。
四天王寺の梵鐘については、同寺に写真などの資料が残されており、一部が英霊堂に展示されている。
明治初期、日本仏教界は神仏分離政策と廃仏毀釈運動によって、解体的出直しを迫られていた。大阪も例外ではなく、例えば全国に2300社ある住吉神社の総本宮、住吉大社(住吉区)からは、1873(明治6)年に境内にあった神宮寺が廃寺となり、伽藍が破壊されるなどしている。
明治10年頃になって、ようやく混乱が沈静化すると、大阪における仏教興隆の拠点とすべく、天台座主の吉田源應を貫主に迎え入れる。吉田は、聖徳太子信仰を再び四天王寺に根付かせるべく、様々な施策を打ち出していく。
そんな中、1921(大正10)年に予定される「聖徳太子一三〇〇年御聖忌(回忌)」の記念事業が俎上に上がってきた。ちなみにその100年後の「一四〇〇年御聖忌」は、2021(令和3)年に厳修された。
吉田は、1892(明治25)年、太子の偉功を讃えるための団体「頌徳(しょうとく)会」を発足させる。頌徳会設立の目的は「一三〇〇年御聖忌」を成功に導くことであり、その目玉事業が「梵鐘=頌徳鐘」の鋳造であった。吉田は頌徳鐘の鋳造に際し、このように述べている。
『科学全盛の極(きわみ)、人咸(みな)物質主義に偏(かたむ)き、快楽主義に流れ、邦家の命脈たる内容の精神的宗教は、地を払いて、将に空しからんとするの今日を挽回して、科学の進歩に相ひ伴ひ、両輪双翼の如くならしめんとす焉(えん)』(頌徳鐘鋳造の「趣意」原文)
つまり、廃仏毀釈によって崩壊の危機にあった日本仏教の再生を期すべく、当時の科学技術の粋を集めて「稀代の梵鐘」を造ろうとしたのである。
頌徳鐘の鋳造は、1903(明治36)年に天王寺公園にて開催される第5回内国勧業博覧会の展示に間に合わせるため、本来の予定よりもかなり早く着手することになった(実際の一三〇〇年御聖忌にあたる大正10年にも法要が厳修された)。ちなみに、この第5回勧業博では頌徳鐘とともに「美術館」も建てられ、それは現在の大阪市立美術館になっている。
計画では、頌徳鐘は次のような規模と見積であった。
高さ 2丈6尺(7.86メートル)
差し渡(口径) 1丈6尺(4.83メートル)
厚さ 2尺2寸(66センチ)
廻り 5丈4尺(16.35メートル)
目方(重さ) 4万2000貫(157.5トン)
頌徳鐘鋳造費 26万円(工場からの輸送費2万円込み、現在の価値では9億4000万円ほど)
鐘楼堂建設費 10万円(現在の価値ではつく億6000万円ほど)
この途方もない規模の大梵鐘鋳造に際し、勧進(寺院の建立や修繕のための寄付)が開始された。寄付金だけではなく、広く地金を集めるために、市内を手押し車が巡回。銅器の回収に回った。
五重塔の前では、勧進大相撲が開催され、四天王寺の鳥居の前では釣鐘まんじゅうが売り出された。釣鐘まんじゅうは現在でも、四天王寺参拝の名物になっている。
64トンの巨体
だが、最終的な寄付額は12万円ほど。当初計画の3分の1ほどしか集まらなかった。そのため、謳い文句の「世界一の大梵鐘」を死守するために、高さと胴回りの寸法は据え置きつつ、重さを1万7000貫(64トン)に大幅に変更した。
輸送費も削減するため、梵鐘を据える場所の真下の土中に穴を掘って鋳型を入れ、そこに銅を流し込む方法が採られた。そして、冷えて固まった梵鐘を真上に引き上げたのだ。
頌徳鐘は勧業博開催の2か月前に完成した。規模が縮小されたとはいえ、現在の「日本三大梵鐘」(方広寺、知恩院、東大寺)と比べても、その大きさはずば抜けていた。
現在、世界一の規模を誇るのが方広寺の梵鐘(重要文化財)だ。「国家安康」「君臣豊楽」と書かれた文言に徳川家康が言いがかりをつけたことで知られる。最終的に豊臣家が滅されるきっかけになったこの梵鐘は、高さ4.2メートルにたいし、重さ83トン。重さでは方広寺に軍配が上がるが、サイズは四天王寺の頌徳鐘のほうが倍近く大きい。
除夜の鐘を17人の僧侶で撞く風物詩で有名な、京都・知恩院の梵鐘(重要文化財)は高さ3.3メートル、重さ70トン。大仏開眼と同じ年の752(天平勝宝4)年に完成した東大寺の梵鐘(国宝)は、高さ3.9メートルにたいし、重さ26トンである。
頌徳鐘の完成に続いて、それを吊り下げる鐘楼建設に着手した。天井には、「森下仁丹」創業者森下博の寄進によって、日本画家湯川松堂による大きな雲龍図が描かれた。そして、施工開始から5年の歳月をかけ、1908(明治41)年5月22日に晴れて、頌徳鐘楼落慶法要が厳修されることになったのだ。
撞かれたのは2度だけ
参詣の人々でごった返す中、落慶法要では「撞き初め式」が行われた。世界一の梵鐘なのだから、その音も大阪一円に響き渡るような大音量でなおかつ、美音を期待するだろう。『大阪毎日新聞 1908(明治41)年5月23日付』では、撞き初め式の様子をこのように報じている。
『此大釣鐘は鋳造の際、少しの手違いから鋳上りの後、調ぶると惜しや鐘の裏手に大なる裂傷を生じたと専ら世間の噂に登った(中略)。濁調ではあるが意外に見事に、余韻を鐘楼の天井に残して鳴響いた』
「濁調」と記していることから、現場にいた参詣者は拍子抜けしたに違いない。その原因はサイズを優先した結果、厚みが均等ではなく、最も薄い部分で5センチほどしかなかったという。そのため、裂傷が入ったり、鋳造の際の継ぎ目が残っていたりするなどして音に影響した。昭和初期に再鋳造の計画が持ち上がったが、実現しなかった。
撞き初め以来、頌徳鐘は「鳴らずの鐘」となり、「撞き初め式」と金属供出がなされる直前の「撞き納め式」と合わせて2度、鳴らされたキリであった。
さて、四天王寺の金属供出は、戦時体制に入った1941(昭和16)年10月から、四天王寺住持の僧侶や専門家を集めて意見聴取と調査がされていく。
翌1942(昭和17)年11月25日午前、当時の大阪府知事・市長、大阪師団長、大阪警備府司令官らが見守るなか、当時の武藤舜應貫主が導師となって、撞き納め式が実施された。
「ダアーンー」(当時の新聞記事ママ)
悲鳴にも似た音が鳴り響き、頌徳鐘はわずか30年余りの命を終えたのである。
翌1943(昭和18)年3月20日、吊り下ろしが行われた。なにしろ64トンもの巨体であり、そのままでは運べない。その場でバラバラに裁断され、トラックに載せられて軍需工場へと運ばれた。
解体作業を終えたのは終戦の2か月前、6月3日のことであった。頌徳鐘がその後、どのような兵器に造り替えられたかは知る由もない。
本稿は『仏教の大東亜戦争』(鵜飼秀徳、文春新書)の一部を再編集した。全国の寺院の金属回収の実態などは、同書を読んでいただければ幸いである。