”中原区が生んだ剛腕ピッチャー” 河原純一が歩んだ栄光と挫折の野球道
皆さんは、中原区にもプロ野球界で長らく活躍した選手がいた事をご存じでしょうか。
今回は、中原区で生まれ、栄光と挫折の波乱万丈な人生を歩んだ剛腕ピッチャー・河原純一さんについて解説します。
”中原区が生んだ剛腕ピッチャー” 河原純一
中原区で生まれ育った河原さんが、野球選手として注目を集め始めたのは川崎北高校3年時です。
甲子園を目指し戦っていた神奈川県予選準々決勝での事でした。
この試合で河原さんは延長16回の投手戦を投げぬき、勝利しています。
その後、駒沢大学に進学した河原さんは、当時の東都大学野球連盟記録となる3度の最高殊勲選手に、日米大学野球でも最優秀投手に輝くなどの大活躍を見せます。
大学通算では53試合に登板23勝10敗、防御率1.66、258奪三振という記録を残しました。
特に大学2年生時の春季リーグでは、79奪三振を記録する快投っぷりを見せています。
そして、1994年のドラフト会議で読売ジャイアンツから1位指名を受けました。
怪我との闘い・・・苦しみながらも輝いた巨人時代
ドラフト1位で巨人に入団した河原さんですが、1年目こそ8勝を挙げる活躍を見せたものの、その後は怪我や奥さんの覚せい剤使用が発覚するなど自身や身内でトラブルが続き、目立った活躍をすることができませんでした。
しかし2002年になると、遂にその素質が開花。
1年間チームの抑えとして働く大車輪の活躍を見せました。
日本シリーズでは日本一の瞬間のマウンドに立ち、胴上げ投手となっています。
特に目立ったのは大学時代から輝いていた奪三振能力で、この年は50イニングを投げ61奪三振とイニング数を上回る奪三振を記録しました。
遂に輝いた河原さんですが、翌年以降は再び不安定な成績を残すようになり、2005年の開幕直後にトレードで埼玉西武ライオンズに移籍しました。
大怪我を負っての戦力外通告・・・苦しみの西武時代と過酷な浪人時代
西武に移籍後は先発として活躍しますが、シーズン終盤に右膝靭帯を損傷するという大怪我を負います。
2007年に一軍のマウンドに復帰しましたが、不振に喘ぎそのオフに戦力外通告を受けてしまいました。
その後、12球団合同トライアウトを受験しますが獲得球団は現れず、母港である駒澤大学でトレーニングに励み、翌2008年のトライアウトを再び受験することにしました。
そして翌年に中日の入団テストを受験し合格、1年ぶりにプロ野球の世界に復帰しました。
剛腕復活!輝きを取り戻した中日時代
プロ野球に復帰した2009年は5月に一軍のマウンドに返り咲くと、そのまま中継ぎの一角として44試合に登板するなど見事な復活劇を果たしました。
翌2010年は怪我に苦しみ一軍でほとんど投げなかったものの、日本シリーズでは計5登板と非常に重宝されました。
2011年も30試合に登板するなど輝きを放ちましたが、シーズン終了後に2度目の戦力外通告を受けました。
その後トライアウトを受験し、愛媛マンダリンパイレーツという独立リーグのチームと契約を結びました。
愛媛で選手として、指導者として、 次の世代の育成へ
2012年から愛媛で野球生活を続けた河原さんですが、2015年に引退。
プロ、アマ、浪人を含めての現役生活は20年にも及びました。
現在は愛媛マンダリンパイレーツの監督として次の世代の育成に励むと共に、愛媛の子供たちに野球を教える野球教室を開くなど、愛媛の野球発展に貢献されています。
何度でも這い上がった不屈の魂! 熱い気持ちは誰にも負けない!
今回紹介した河原純一さん、現役時代も含めて何度も何度も怪我をしましたが、その時その時で復活を果たしました。
中原区から輝きを放った不屈のプロ野球選手を忘れてはなりません。
※この記事は「なかはらPR」より転載しております。オリジナル記事が読みたい方はこちらからご覧下さい。
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