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フリースタイル「ラップ×お笑い」が根づいた理由 タモリ、ジャリズム、ジョイマン…ラップネタの変遷

鈴木旭ライター/お笑い研究家
(写真:REX/アフロ)

芸人やお笑いタレントがラップで笑わせるようになって久しい。シンプルに捉えれば、これは日本のヒップホップシーンがメジャーになったことの象徴といえる。いつの日も、エンタメは時代を反映するものだからだ。

ここ最近では、ラッパーとラップ好き芸能人(大半は芸人)がタッグを組んでMCバトルを繰り広げる『フリースタイルティーチャー』(テレビ朝日系)が放送されている。とはいえ、いつからラップとお笑いは結びついたのだろうか。

私が記憶する中でもっとも古いものは、タモリのハナモゲラ語(インチキ外国語)ラップだ。ヒップホップグループのRun-D.M.C.が、1986年の来日公演にあたってプロモーション目的で『笑っていいとも!』(フジテレビ系)に出演。エアロスミスのカバー曲「Walk This Way」のパフォーマンスを見せる中、これに乗っかる形でタモリがデタラメな中国語ラップを披露した。

わずかな時間で、ラップネタというよりは即興芸に近かった。とはいえ、カルチャーとお笑いが入り混じったこの衝撃は、今でも私の脳裏にこびりついている。

「業界こんなもんだラップ」

日本にヒップホップカルチャーを広めた第一人者と言えば、真っ先に頭に浮かぶのがいとうせいこうだ。

タレント、小説家、俳優など様々な顔を持ついとうだが、そもそもは早稲田大学在学中にピン芸人のような活動をしていた。この流れでラジオパーソナリティーをやらないかとオファーが来たが、逆にタモリのもとで裏方を学びたいと伝え、『タモリのオールナイトニッポン』(ニッポン放送)でADを務めたりもしている。

大学卒業後、出版社の雑誌編集を務める傍ら、ヒップホップMCとして活動を開始。1985年、いとうが初めてアーティスト兼プロデューサーを担ったコンピレーションアルバム『業界くん物語』がリリースされる。1曲目の「業界こんなもんだラップ」は、多くのアーティストに衝撃を与えた。

ちなみに1981年に発売されたシングル「邦子のかわい子ぶりっ子(バスガイド篇)」の中で、山田邦子がバスガイドネタとともにラップを披露している。しかし、この音源は“企画モノ”という印象が拭えなかった。

これ対し、いとうの楽曲はスクラッチバトル、ヒューマンビートボックスといった要素が意識的に盛り込まれており、明確に日本のヒップホップシーンの幕開けを想起させるものだった。

「葬式DJ」と日本語ラップの進化

個人的に思い出深いのが、高校時代に見たジャリズムの「葬式DJ」だ。“葬式ナビゲーター”と自称する渡辺あつむ(現:桂三度)が、ソウルフルな歌い手であるトム・ジョーンズの代表曲「恋はメキ・メキ」とともに勢いよく登場。葬式の厳かな空気を一変させ、ラジオDJのような口調でボケ続けるというネタだった。これは当時、深夜バラエティーで活躍し始めたラジオDJ・赤坂泰彦を模したものだろう。

またネタの中で、渡辺は「俺なりのラップ」「成仏、DA.YO.NE~♪」とボケている。つまり、1995年にEAST END×YURIの1stシングル「DA.YO.NE」が全国的なヒットを記録した後に作られたわけで、ネタから時代が読み取れるのも面白い。

「DA.YO.NE」のヒットを受け、方言バージョンも多数リリースされた。今田耕司、東野幸治が参加したWEST END x YUKI from O.P.D.が『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP』(フジテレビ系)で「SO.YA.NA」を披露し、真っ先にブームに便乗していたのを鮮明に覚えている。

またこの頃、Kダブシャイン、Zeebra、DJ OASISによるヒップホップグループ「キングギドラ」が1stアルバム『空からの力』をリリースするなど、アンダーグラウンドシーンも盛り上がりを見せた。このことで、「倒置法」「体言止め」「ダブルミーニング」「ストーリーテリング」といった日本語ラップの基礎が確立された。

「Grateful Days」のヒット、ラーメンズの「採集」

1999年に発売されたDragon Ashの5thシングル「Grateful Days」が週間オリコンチャート1位を記録。このヒットにより、ゲストボーカルとして参加したZeebraのリリック「俺は東京生まれHIPHOP育ち 悪そうな奴はだいたい友達」が幅広い世代に知られることとなった。当時、お笑いタレントの内山信二がものまね番組に出演し、Zeebraのパートで笑わせていたのを今でも思い出す。

その後、KICK THE CAN CREWやRIP SLYMEなど、ヒップホップグループがオリコンチャートを賑わせるようになる。とくにKICK THE CAN CREWは、ライブにお笑いコンビ・ラーメンズ(2021年、コンビでの活動を終了)をゲストとして招いたり、KREVAのシングル「国民的行事」のMVに小林賢太郎が出演していたりとジャンルを超えた交流も目立つ。

ラーメンズもまた、2001年1月~2月に行われた公演『椿』の「日本語学校アメリカン」、2002年末~2003年1月に行われた公演『ATOM』のコント「採集」の中で小林がラップを披露。「採集」では、「夢を抱いてみんな上京 けど現状はこんな状況」といったライミングを披露しており、“ラッパー(およびラップ)に対するイメージ”もジャリズムの時代からだいぶ違っていることがわかる。

「ディスる」の一般化とネタ番組ブーム

2000年代初頭、ラッパーが同業者や著名人を批判する意味合いの「disrespect」(軽蔑する、侮辱する)から派生した「ディスる」という表現が一般にも浸透し始める。きっかけは、ネットの巨大掲示板「2ちゃんねる」だったように思う。

ユーザーを非難、攻撃する意味合いでネットスラングとして使われ始め、言葉の新鮮さもあり日常でもよく耳にするようになった。

2007年には、『リンカーン』(TBS系)内のコーナー「ウルリン滞在記」で中川家・中川剛がヒップホップグループ・練マザファッカーに弟子入りし、ラップ修業を積むという企画が放送されている。その中でたびたび「ディスる」という言葉が使用されたため、さらに広く知れ渡ることとなった。

こうした動きと同時にヒップホップアーティストの知名度が上がり、幅広い年齢層から支持される音楽ジャンルの一つとして定着していく。その頃、ちょうど全盛を迎えたのがネタ番組である。『エンタの神様』(日本テレビ系)、『爆笑レッドカーペット』(フジテレビ系)といった番組では、一瞬で視聴者を掴むようなインパクトの強い芸人が支持された。そんな中で登場したのが、「ありがとう オリゴ糖」といったライミングでおなじみのジョイマンだ。

2011年1月に放送された『ゴッドタン』(テレビ東京系)内の企画「第8回マジ歌選手権」では、ダイノジ・大地洋輔がラップを披露。彼女にたしなめられながら、バイト生活を続けるダメ男の滑稽さを歌って笑わせた。

フリースタイルが流行するまでの経緯

ダイノジ・大地まではあくまでもネタであり、ヒップホップアーティストで言うところの作品に近いアウトプットである。しかし、2010年代から即興のラップ、“フリースタイル”を披露する芸人が目立ち始めた。

この現象に至ったのには、テレビ関係者やスポンサーの存在なくしては語れない。最初に大きなうねりを作ったのが、『爆笑問題のバク天!』(TBS系)や『石橋貴明のたいむとんねる』(フジテレビ系)など数多くのバラエティー番組に携わったフリーディレクター・岡宗秀吾氏である。

2012年に『BAZOOKA!!!』(BSスカパー!・2019年8月終了)内の企画「高校生RAP選手権」を立ち上げると、瞬く間にヒップホップ好きや若年層の視聴者へと浸透していった。この土台には、岡宗氏自身もAD として携わっていた番組『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』(日本テレビ系)内の企画「ダンス甲子園」があったに違いない。

そもそも岡宗氏はTOKYO No1. SOUL SETやスチャダラパーとゆかりが深く、ビースティ・ボーイズが来阪した際には「お好み焼き屋にアテンドする」というレアな仕事も経験している。バラエティーの世界とヒップホップ、どちらにも精通していたことがヒットの所以だろう。

「高校生RAP選手権」に触発され、2015年に『フリースタイルダンジョン』(テレビ朝日系)をスタートさせたのがサイバーエージェントの社長・藤田晋氏だ。RPGの要素を盛り込み、ラスボスである般若を倒すというコンセプトで大きな反響を呼んだ。この番組でR-指定、漢 a.k.a. GAMI、晋平太、呂布カルマ、サイプレス上野、DOTAMAなど、実力者たちの知名度を上げたのは間違いない。

そもそも藤田氏は、大のヒップホップ好きであり、1996年7月に行われた伝説的なイベント「さんピンCAMP」にも足を運んでいる。2006年、日本のヒップホップシーンにまつわるトーク、ライブを展開する番組『シュガーヒルストリート』(日本テレビ系)をサイバーエージェント一社提供でスタートさせたのには衝撃を受けたものだ(『フリースタイルダンジョン(および『~ティーチャー』)』も基本的には同じだが、インターネットテレビサービス「ABEMA」との連動がある)。

司会にZEEBRA、Marieと並び、ヒップホップ好きとして知られるくりぃむしちゅー・有田哲平を据えていたのも見物だった。

「コヤブソニック」と「ファンキージェネレーション」

『フリースタイルダンジョン』の放送開始後、間もなく開催されたのが「ディスペクト ~芸人VSラッパー~」だ。主催は品川庄司・品川祐。2015年12月にヨシモト∞ホールで行われたイベントで、通常のラップバトルではなく、対戦者2人が交互に指定された芸人をディスって「どちらのラップがより傷ついたか」で勝敗を決めるというものだった。

これにDOTAMAやサイプレス上野といった本家のラッパーのほか、とろサーモン・久保田かずのぶや中山功太も参戦。とくに久保田は、同年8月に行われた「戦極 MC BATTLE feat 芸人ラップ王座決定戦」で優勝した実力者ということもあり、巧みなパフォーマンスで会場を沸かせた。ヒップホップ好きで、下積み時代にセクシーキャバクラでマイクパフォーマンスを披露していた経験もあってのスキルなのだろう。

前後するが、2008年に小籔千豊が立ち上げた音楽イベント「コヤブソニック」の中で、すでに芸人同士がMCバトルを行う「おもしろフリースタイルラップバトル」なるコーナーが設けられている。確認できるもっとも古い記録は2012年。つまり、「高校生RAP選手権」が始まった年だ。この事実からも、『BAZOOKA!!!』の司会を務めていた小藪が、芸人のMCバトルの盛り上がりを促したと考えて間違いないだろう。

一方の品川は、趣味的にUMB(ULTIMATE MC BATTLE。2005年から始まったMCバトルの大会およびヒップホップイベント)を観ており、般若と親しかったことから「ディスペクト~」を立ち上げている。その少し後、くりぃむしちゅー・有田も『有田ジェネレーション』(TBS系・2016年5月~2021年3月終了)の中で、若手芸人がMCバトルを繰り広げる企画「ファンキージェネレーション」をたびたび開催していた。

つまり、芸人のMCバトルは、本家の流れと連動する形で盛り上がっていったのである。

「ラップ×お笑い」が根づいた理由

こうした動きがあったのは、シンプルに世代による影響が大きいだろう。

学生時代からヒップホップに興味を持ち、星野源とのコラボ楽曲「Pop Virus feat.MC.waka」(昨年9月7日深夜に『星野源のオールナイトニッポン』(ニッポン放送)内で披露された)など、実際に何度かラップも披露しているオードリー・若林正恭はこう語っている。

「20年前ぐらいはね、まぁ自分がいた事務所も小っちゃいからなのか、『日本語ラップ聴いてる』みたいなこと言うとイジられてたんだよね、先輩に。芸人の。何だったんだろう……。で、(アフロヘアで)太いブラックジーンズにエア フォース1とか履いて漫才やってたら、『お前何なの? その格好』みたいな。『格好つけたいの?』みたいにイジられてて。(中略)その先輩は細い革のパンツにラバーソール履いてチェーン垂らしてハット被ってんのよ。『それはいいんだ』って思って」(2021年10月31日に放送された『ボクらの時代』(フジテレビ系)より)

日本のヒップホップシーンの幕開けに、スチャダラパーという存在があった影響は計り知れない。彼らはそれまでのハードコアなノリではなく、『8時だョ!全員集合』(TBS系)でいかりや長介が口にしていた「オイッス!」という掛け声で盛り上げ、「太陽にほえろ!」(日本テレビ系)のテーマソングにラップを乗せるような文化系のラッパーだった。つまり、当時から「ラップ×お笑い」の親和性が高いことを証明していたわけだ。

最近では、ヒューマンビートボックスとラップでネタを披露する新作のハーモニカのような芸人コンビも現れている。ここまで来ると、もはやパフォーマーだ。初めて見た時は、「ついにそういう世代が登場したか」と感慨深いものがあった。

他方で、コンプライアンスが重視される窮屈な時代でもある。そんな中、鬱積した気持ちをルールの中で吐き出せる芸人のMCバトル、論破対決が支持されるのは必然なのかもしれない。

ライター/お笑い研究家

2001年から東京を拠点にエモーショナル・ハードコア/ポストロックバンドのギターとして3年半活動。脱退後、制作会社で放送作家、個人で芸人コンビとの合同コント制作、トークライブのサポート、ネットラジオの構成・編集などの経験を経てライターに転向。現在、『withnews』『東洋経済オンライン』『文春オンライン』といったウェブ媒体、『週刊プレイボーイ』(集英社)、『FRIDAY』(講談社)、『日刊ゲンダイ』(日刊現代)などの紙媒体で記事執筆中。著書に著名人6名のインタビュー、番組スタッフの声、独自の考察をまとめた『志村けん論』(朝日新聞出版)がある。

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