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【連載】暴力の学校 倒錯の街 第43回 6章 控訴審 「控訴趣意書」の奇妙な論理

藤井誠二ノンフィクションライター

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6章 控訴審 「控訴趣意書」の奇妙な論理

一九九五年十二月二十五日、福岡地裁は宮本に二年の実刑を言い渡したが、宮本側はそれを不服として年が明けた一九九六年一月九日に控訴した。

桑原昭熙弁護士の筆による控訴趣意書にはこうある。まず、「事実誤認について」。

「第一点 原判決は、「激怒し」と認定しているが、被告人は激怒しておらず、教師の指導に素直に従おうとしない被害者の態度、かかる態度がもたらす重大な校則違反とそれによる退学などの不利益処分を、懸念し、そうした態度を改めさせなければと考えたが、当時一○名の生徒のテストを行っていて、その監督のため時間をかけた説得を行うことが不可能という状況下にあったことから、万止むを得ず本件所為にいでたもので、腹立たしい感情が無かったとは言わないが、決して激怒して本件所為に及んだものではない。確かに、被告人の取調宮に対する供述部分の中には、「腹立たしい」「頭に来た」という表現が随所にみられるが、最初に被害者の処に行ったのは、教室から出るように注意するためで、スカート丈を短くしているのを発見した時は、スカート丈を直させるためであり、廊下に追って出た時は、スカート丈を短くしていたのを見過ごすと(筆者注・他の)生徒の手前よくないと思い、また問題行動を起こしやすい夏休み前できちんと筋を通すべきであるとの考えからであったもので、その何れをみても、特に頭に来る、あるいは激怒するほどの原因となるとは通常考え難い出来事であり、むしろ「筋を通すべきだ、受験中の生徒から目を離せない」など考慮している態度からは、冷静に対処しようとする姿勢が窺えるもので、感情的になっていた旨の供述部分は誇張された表現と言うほかはない。被告人が立腹したのは、廊下で一度突かれた被害者が、右手で被告人の襟首を掴んだときで、被告人は、これを立ち向かって来たものと判断したためであり、立腹も止むをえない状況と言うべきである。(中略)また、『なめられてたまるかという感情があり、怒っていた状態だったので、強く指導しようという思いになって力を込めて突いた』旨の供述が八月八日付の検面(検察官調書)にみられるが、怒っていた状態と言いながら、強く指導しようと思ったというのは、あくまでも冷静な心理状況を物語るものであり、我を忘れるほどの激怒とは程遠い心理状況と言うことができる。同供述の最後の部分に『冷静さを欠いたまま感情に任せて夢中でそのような乱暴をしてしまいました』という部分があるが、これは、はからずも、被害者に死の結果を生じさせた本件所為をふり返り、どうしてかかる行為をなしたのか、自責の念に駆られ、取調官の質問に対し、頭の中で考えた理由付けの表示にすぎず、当時の心理状態を述べたものでないことは、その表現からして明らかである。

第二点 原判決は、『犯行に至る経緯』の項では『腹立たしくなり』『かっとなって咄嗟に犯行に及んだ』と認定しているが、『特に考慮した事情』の項では、『怒りの余り我を忘れて』『短絡的に激怒して』『憤激のあまり暴行を加え』と認定している。前者の認定からは、被告人が本件犯行時激怒していた旨認定したものとは認められないのに、罪となるべき事実及び右の後者では、『激怒し』と認定していることは理由齟齬である。また被告人が立腹したのは、前述のとおり、被害者が被告人の襟首を掴んできた時であって、被害者が口答えをしたと思ったときではなく、この点も誤りである。ところで本件における被告人の所為の態様は、滑り易い廊下の状況、不意に突いたことなどを考えると、突いた力がどの程度の力であったか俄に決められないのに、原判決は『手加減を加えず、力を込めて』と認定しているが、それはともかくとして、暴行自体は、死の転帰をきたすほどのものとは程遠いものであることは疑う余地のないものである。これまでの体罰による死亡例をみると、すべてが、暴行自体死に結びつく激しいものであり、これこそ、激怒し感情の赴くまま暴行を加えたものと言うことができる。しかし、前記のとおり本件は、これら事例とは異なるものである。原審は、被害者の死という事象にのみに捕らわれ、暴行そして死の招来ということのみに目を奪われ、暴行それ自体死を招く激しいものではないのに、それこそ短絡的に『死=暴行プラス激怒』という本件と異なる前記体罰死と同じ図式による思考により、「激怒して」という事実誤認を犯したものと思料される。その結果、校則違反を注意、是正させ、不利益処分を受けることのないよう指導し、筋を通すべきであるとの見地から本件所為に及んだ旨の被告人の供述部分を看過し、被告人の本件所為を『もっぱら被害者の態度に誘発された私的な怒りの感情に基づく』ものと決めつける誤りを犯すに至っている」

「激怒」したからこそ、己がふるった体罰を忘却しているのではないか。それより、私のほうが激怒したくなるのが「量刑不当について」というくだりである。

「事実誤認の項で既に述べたとおり、本件所為に当たって、決して被告人は、怒りの余り我を忘れて、手加減を加えず突いたものではない。突く行為は、殴る・蹴る・叩くなどの行為からすれば通常軽度のものである。原判決も認めているように、柱に打ち当てようとして突いたものではない。被害者が被告人の注意に反発する言動をしたため、『たいがいにしとけよ』とたしなめ、注意する意図で突いたに止まるものである。原判決は、被害者は高二で注意の意味内容を理解する能力を備えており、十分な説諭等による指導をすべきであったと説示するが、スカート丈を短くしてはならないことは校則に定められ、服装検査も常時行われており、今更十分な説諭がなくとも、注意の意味内容は十分に理解できている筈である。そして、前述のとおり、当時被告人は、試験を実施しており、その監督をしなければならない教師として重要な任務を有していて、被害者に十分な説諭をすべき時間的余裕はなかったもので、十分な説諭をすべきであった旨の判示は、被告人の当時置かれていた状況を理解せず、不可能なことを強いるものと言わざるを得ず机上の空論である。また原判決は、被告人の本件所為が、もっぱら私的な怒りの感情に基づく旨判示するが、この点は既に述べたとおり、むしろ逆に、もっぱら被害者の将来を思い、校則違反を犯さないよう教育的立場から意図された所為である。被害者は、一年時に喫煙により謹慎処分に処せられ、二年時には、禁止されているポケットベルを所持したり、ピアスをはめるなどの校則違反を犯しており、今後重大な校則違反があれば謹慎あるいは退学処分もあり得るという状況に置かれており、被告人がその将来を懸念したことは十分に理由があり、それだけに、自覚をうながし、これを防ごうと厳しく対処しようとしたことも十分首肯し得るところである」

喫煙はともかく、ポケベル、ピアスなどを、さもおおげさに、あたかも厳しく咎められなければならない悪事のごとく表現しているが、それらは「暴行を受ける」理由などに値するはずもない。一般社会では何の法律違反でもない、ごくあたりまえのことが、「学校」の中では、「悪事」に変色してしまう。異常な倒錯である。

そして、もっと異常なのは、次からのくだりである。

控訴趣意書はあくまでも、被告人を弁護するためのものであるので、ある程度まで被害者への責任転嫁は許容範囲とするべきだろう。しかし、以下の文章は、加害者の弁護を越え、被害者(側)を中傷する内容であると私は思う。言うまでもなく、陣内元春もこの趣意書には深い憤りを感じたという。

「被害者は、その母親の検面供述にみられるように、口が達者で、母親が一口言うと十倍くらいになって返って来ることもあり、父親は口で言い負かされ、被害者が判らないで反発すると叩く(母親の警察調書)というような態度の相当我の強い子供である。そして、学校でポケベルの所持が禁止されているのに、これを知りながら母親は、被害者がポケベルをもって登校するのを容認しており、かかる甘い対応が、教師の指導・注意に反発するという被害者の態度を生む原因の一つにもなっていると考えられる。本件によって愛する娘を失った両親の悲しみ、怒りはもっともであるが、本件の発端となった試験の行われる教室に理由もなく居残り、退室するようにとの被告人の注意に素直に従おうとしない被害者の態度は、右のような家庭の躾の不十分さに原因があると言うべきで当初の被告人の注意に素直に従い退室しておれば、本件の如き不幸な事態は起こらなかったことは明らかで、家庭の躾の不十分さを無視し、その責を被告人にのみ問うことは酷に過ぎるものであって相当とは言い難い」

このロジックは、クルマにはねられた理由は家を出て道を歩いていたからである、という暴論に等しい。控訴する権利はあるが、被害者の悲しみを倍加させる権利はない。このような控訴趣意書に同意をした宮本は、人を殺しておいてもなお、自身の「教育方針」に疑いを抱くことができていないという証拠である。盗人猛々しいとはこのことだ。このあと、趣意書は、次のような論理を展開する。

「原判決は、被告人が日頃から体罰禁止は建前に過ぎず、安易に力に頼る指導をしていたと判示しているが、本件の前には、本件学校において体罰を行っていた教師は約半数にのぼり、体罰一掃を申し合わせた本件後においてすら二件の体罰が行われていることに徴すれば、被告人一人のみが、右のように考え、体罰を行っていたものではなく、学校の体質そのものが、体罰を容認し、多くの教師が被告人と同じ考えであったことは明白である。かかる体罰容認の風土の原因は、原審における弁論の中で詳細に述べているので、これを引用するが、本件学校のセールスポイントは、『躾とクラブ活動』であった。その方策として、詳細な校則を設けて生徒管理を行い、このため教師は、家庭における躾までも背負わされる重圧にあえぎ、即効を求めて勢い体罰に走るという図式がみられる。こうした図式は本件学校のみに限られるものではない。本件発生の三日後の平成七年七月二一日、福岡県私立学校教職員組合連合は、体罰一掃宣言案を作成し、同年八月一九、二○日開催された第二○回福岡私教連研修集会で、『体罰問題を考える』特別分科会を設け検討した。それは、『今回の事件を一教師だけの責任あるいは近畿大学附属女子高校だけの問題とすることはできない。教師による『体罰教育』は他の学校でも数多く行われている』ことに鑑みて、二度と本件のような痛ましい事故を起こさないために開かれたもので、体罰が多くの学校で行われていたことを証するものである。体罰が禁止されていることはすべての教師が認識している筈であるのに、容易に体罰が行われていることは、体罰に頼らざるを得ない教育現場の状況があると考えられる。最近中学生による強姦事件、高校生の覚醒剤使用、いじめによる生徒の自殺などが新聞に報道されたように、荒れる教育現場の報道が相次いでいる。共稼ぎの家庭が増え、多くの親が子供の躾を放棄し、学校にこれを押しつけていると言われる今日的状況において、体罰なしの教育によって、これら事件の発生を防ぎ、生徒を教育し得るものか、その防止のためには、かかる不祥事を多発させる教育現場の在り方そのものが問われるべきものである。本件における被告人の刑事責任もまた、体罰そして死という単なる傷害致死事件として、軽々に扱ったのでは、正しくその責任を問うたものとは言えず、体罰容認というこれまでの教育現場の状況自体、その原因をなす躾教育や管理主義選別教育、家庭における躾の放棄などの功罪がまず問われるべきであり、その評価の中で、被告人の本件所為の無価値性の程度を検討し、その責任を問うべきである」

この部分については大方において異論はない。しかし、残念なから明らかな論理の転倒である。頭髪や服装を管理し、それに従わない者に対し、さまざまなペナルティが課せられ、宮本のように体罰をふるうことが、ここで批判している「管理教育」なのである。その「管理教育」の忠実な体現者が宮本だった。

この控訴趣意書に対し、むしろ「被告人か事実誤認」と検察が反発したのはいうまでもないが、陣内元春も九六年四月十八日に陳述書を提出した。

《地方裁判所の判決は宮本煌被告が反省しているとの情状を酌んで、求刑懲役三年が懲役二年の減刑判決となったと思いますが、宮本煌被告は地方裁判所の判決を不服として控訴しましたし、控訴の後日に宮本煌被告の妻は、娘・知美の仏前へのお参りを差し控えると伝えてきました。その後、お参りに来られていません。宮本煌被告の態度は反省しているとは受け取れません。神妙に罪を償おうとしない宮本煌被告を厳罰に処して下さい。控訴期間の勾留日数を刑に含まないで下さい》

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ノンフィクションライター

1965年愛知県生まれ。高校時代より社会運動にかかわりながら、取材者の道へ。著書に、『殺された側の論理 犯罪被害者遺族が望む「罰」と「権利」』(講談社プラスアルファ文庫)、『光市母子殺害事件』(本村洋氏、宮崎哲弥氏と共著・文庫ぎんが堂)「壁を越えていく力 」(講談社)、『少年A被害者遺族の慟哭』(小学館新書)、『体罰はなぜなくならないのか』(幻冬舎新書)、『死刑のある国ニッポン』(森達也氏との対話・河出文庫)、『沖縄アンダーグラウンド』(講談社)など著書・対談等50冊以上。愛知淑徳大学非常勤講師として「ノンフィクション論」等を語る。ラジオのパーソナリティやテレビのコメンテーターもつとめてきた。

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