中村憲剛は誰からも愛された男──だからこそ思う、ブラジルW杯に「憲剛がいれば」
新国立のピッチで寝転がった意味
「(新国立競技場のピッチで大の字で寝転がったのは)『帰りたくない』って思いから。あの瞬間を残しておきたいと。ロッカールームにいたのも最後でしたけど、ユニフォームを脱ぐのも嫌だった。脱いだらもう着ることは2度とない。こうやって1つ1つ終わりを実感していくんだなと思いました」
2021年元日の天皇杯決勝戦・川崎フロンターレ対ガンバ大阪。序盤から一方的に押し込んだ2020年J1王者・川崎は相手の粘り強い守備に苦しみながらも、後半10分に三笘薫の奪った決勝点を守り切って2冠を達成。新型コロナウイルスに翻弄されたシーズンのラストを華々しく飾った。
そんな中、新国立競技場に集まった1万3318人の観衆とテレビ視聴者の関心はこの日を最後に現役引退する中村憲剛の一挙手一投足だった。1点を先行した鬼木達監督は小林悠や長谷川竜也ら交代カード4枚を投入。残り1枚を保持したままロスタイムに突入した。万が一、延長にもつれ込むことを想定して、大ベテランを温存していたのだ。が、試合はこのままタイムアップ。40歳の男はラストダンスを見せることができなかった。
「これはこれでいい筋書き」
「これはこれでいい筋書きだった。(12月16日の)浦和レッズ戦で90分プレーできたし、悠にアシストできた。天皇杯も取れたし、ホント、言うことなし。こんな素晴らしい終わり方を想像してなかったです」
現役最後の記者会見で、中村憲剛はしみじみとこう話した。プロ生活18年の間には、タイトルを取り損ね、日の当たる舞台を逃すという苦い思いを何度も味わってきた。
日本代表でも最終予選までレギュラーでありながら、2010年南アフリカワールドカップ(W杯)では控えに回り、本田圭佑ら若手を縁の下から支える立場を強いられた。リベンジを期した2014年ブラジルW杯もアルベルト・ザッケローニ監督の突然の方針転換によってベテラン外しの煽りを受け、大舞台に立てなかった。
サッカー人生終盤になって数々の優勝やJリーグMVPなどの栄光をつかんだが、この終わり方は悔しさをバネに前に進み続けた中村憲剛らしいと言えるのかもしれない。そんな日々が走馬灯のように脳裏を駆け巡ったからこそ、「これはこれでいい筋書き」という言葉が口をついて出たのかもしれない。
「あれだけ愛されるサッカー選手はいないと思いますし、僕も憲剛さんを愛していた1人です」と日頃、あまり感情を表に出さない大島僚太が人目をはばからず涙を流しながら語ったように、彼ほど老若男女に支持されたサッカー選手にはなかなか出会えない。それはわれわれメディアにとってもそう。憲剛は取材する側と取材される側の垣根を超えて、ごく普通の人と人としての関係を築いてくれた数少ない選手だった。
誰からも愛された男の原点
思い起こすこと2003年の川崎・麻生グランド。初めて言葉を交わした憲剛に名刺を渡すと「ああ、僕、知ってます」と意外な反応を見せた。当時、筆者が携わっていたサッカー技術誌の記事を読んだというのだ。彼の都立久留米高校時代の恩師・山口隆文先生(現日本サッカー協会技術委員)がJFA強化指導指針作成に携わっていたため、90年代後半に何度か取材に行ったことがあったのだが、奇しくも憲剛はその時の高校生。そんな偶然もあり、頻繁に会話するようになったのだ。
「中村憲剛は代表クラスの逸材」
2004年時点で複数のJリーグ関係者がそう噂しているのを耳にしたが、2006年には評判通り、日本代表に初招集された。国際Aマッチデビューは2006年10月のガーナ戦(横浜)。続く2007年アジアカップ予選・インド戦(バンガロール)では代表初ゴールを挙げた。
この遠征時に「憲剛君は年代別代表経験皆無だけど、海外は何回目?」と尋ねると、「新婚旅行以外では初めて」という驚くべき回答をした。ある意味、ドメスティックだった男の初ゴールが劣悪の環境だったインドということで、細身の体からは想像できない逞しさとタフさ、勝負強さが見て取れたのだ。
同じ目線で普通の話ができる仲間
2007年アジアカップ(東南アジア4カ国開催)の際には、読書が趣味という彼に読み終わった本を何冊か渡したり、横山秀夫の「クライマーズハイ」の話で盛り上がったりした。2010年南アW杯直後にも、麻生グランドをアポなし訪問し「大会総括を聞きたい」と懇願。「数日後ならいいよ」と快諾し、こっそり個室で30分ほど話をしてくれた。初戦のカメルーン戦で決勝弾を叩き出した本田に「点を取ったらベンチに来いよ」と声掛けし、実際にその通りになり、チームの一体感が一気に高まったというエピソードを聞いたのもこの時。コロナ禍の今は選手と直接会話することも叶わないが、憲剛にはそういう機会をたくさんもらった。彼ほどの偉大な選手と「同じ目線で話のできる仲間」という感覚を持てたのは、本当に嬉しく、ありがたいことだった。
一方で、サッカーに関しては、さまざまな解説をしてもらった。イビチャ・オシム監督の「考えながら走るサッカー」にしても、岡田武史監督(FC今治)が提唱した「接近・展開・連続」にしても、憲剛が分かりやすくかみ砕いて説明してくれた。中村俊輔(横浜FC)も戦術眼や理解力が高かったため、「ダブル中村」にはどれだけお世話になったか分からない。
ザック監督就任直後は、憲剛のサッカーIQの高さがひと際光っているように映った時期だった。2010年10月の韓国戦(ソウル)の際には「ザックさんは守備の始め方、相手のボール時のラインの高さが特徴的だし、『攻撃も前に』っていうキーワードをすごく好意的に受け取ってますね。僕自身がそういう選手なんで」と目を輝かせながら話していた。実際、新指揮官のコンセプトを身を持って実践しようとしていたし、本田がひざのケガで長期離脱した2011~12年にかけて穴を埋めたのは彼だった。そんな憲剛をブラジルW杯に連れて行かなかったのは、ザック監督の大失敗だったと断言したいくらいだ。
ブラジルW杯落選はザック監督の大失敗
「自分はフロンターレから全てをもらった」と最後の会見で胸を張った通り、川崎ではアジアチャンピオンズリーグ(ACL)を除く全ての王者に輝き、個人タイトルも手にした彼だが、代表でももっと成功できたはずだった。W杯は南アのパラグアイ戦(プレトリア)の後半34分以降という短いプレーにとどまったが、ブラジルW杯に彼がいれば遠藤保仁(磐田)と入れ替えながら使うことも可能だったし、長谷部誠(フランクフルト)や川島永嗣(ストラスブール)ら年長者にかかるメンタル的な負担も軽減できたに違いない。
「W杯のことはもう終わったことだから」
代表から離れた後、憲剛はどこまでも潔く、清々しかった。物事をネガティブに見ることなく、つねに前向きにとらえようと努力する。自分が悪ければ「俺が悪い」と素直に認め、仲間が未熟であれば「もっとこうしろよ」とストレートに要求する。こうやって自分にも仲間にも厳しく、妥協せず、やり続けてきたからこそ、今がある。
中村憲剛という人が示した最高の人間性とメンタリティを川崎や代表の後輩のみならず、日本サッカー界全体が引き継いでいく必要がある。稀代の名プレーヤーの残したものをわれわれは今一度、噛み締めるべきだろう。