手形の歴史と五代友厚
手形とは、将来の特定の日に特定の金額を支払う旨を約束した有価証券です。元々は、土地の売買などに絡んだ法律的な文書や宗教的な文書である原文に押されていた文字通りの「手形」でした。その後、証文の印としての「手形」を押す習慣はなくなりましたが、手形が押されていた証文などを指す言葉として「手形」という用語が残ったのです。
現在のような手形制度は、中世に地中海沿岸の都市で発達した両替商が発行した手形に始まるとされていますが、日本でも鎌倉時代にはすでに、割符屋を通じて、金銭を割符と呼ばれる手形で決済をする取引も行われました。江戸時代には特に大阪(大坂)を中心に手形で決済をする慣習ができ上がっていました。幕府による大阪の御金蔵から江戸への公金輸送や、諸大名の大阪の蔵屋敷から江戸の大名屋敷の送金などにも手形が使われていたそうです。
明治に入り、明治維新の波を受け大阪の両替商などは銀主体の商取引の廃止と、藩債の整理などにより大きな影響を受けました。朝の連続ドラマ「あさが来た」のあさの嫁ぎ先である両替商は、炭鉱の収益で何とか商売を続けられている様子がうかがえます。ここにしばしば登場しているのが五代友厚です。五代は大阪の経済が維新後に低迷していたことで、大阪経済の復活を願って、財界指導者の有志らと大阪商法会議所(のちの大阪商工会議所)設立に尽力していたのです。その大阪の商取引で使われていたのが信用に基づいた手形取引でした。
明治時代に入り、近代的な銀行制度の導入を目指していた明治政府は、それまでの伝統的な取引慣行に代えて、欧米流の商業手形取引の活発化が課題となりました。資金決済のために期間2~3か月の商業手形を振出すという欧米流の手形取引はほとんど行われていなかったのです。
この手形市場の育成に大きく関わっていたのが、大阪商法会議所の初代会頭であった五代友厚です。ただし、欧米流の商業手形取引の導入を試みようとしていた渋沢栄一に対し、五代友厚は大阪での伝統的な手形取引を復興させようとしていたのです。
明治政府は各種の商業手形取引の振興策を実施し、欧米の手形制度を取り入れるとともに、江戸時代からの手形制度と融合しながら、1877年以降に大阪を中心として手形取引は次第に活発化してきました。
手形の取引量の増大とともに取り立てなどのコストの大きさが強く認識されるようになり、この手形取立てコストの削減を目的に手形交換制度が設立されました。手形を同一地域内の金融機関が持ち寄って交換することによって、相互の貸し借りを相殺する仕組みが手形交換制度です。1879年に大阪手形交換所が、1887年に東京手形交換所が開かれたのです。