Yahoo!ニュース

「昭和の超克」と「成熟」の物語――映画『HOMESICK』から見える現代社会

西田亮介社会学者/日本大学危機管理学部教授、東京工業大学特任教授

先日廣原暁監督の新作『HOMESICK』の公開記念イベント(2013年8月4日)に、対談相手としてご指名いただいた。批評家の渡邉大輔氏が司会を担当した。

http://www.cinematopics.com/cinema/c_report/index3.php?number=7466

廣原監督は、現在27歳で、海外のコンペにも積極的に出品し、高い評価を得ている日本映画界期待の逸材だ。そして、本作も大変に興味深く拝見させていただいたので、上記URL先のトークイベントでも少し論じた内容を、以下に、もう少し掘り下げてみた(軽度のネタバレに注意)。しばしば「サトリ世代」と呼ばれる若年世代の心情風景を描いたといわれるが、筆者には現代社会が抱えた、そして乗り越えるべき課題を静かに提示したように見えた。

---

『HOMESICK』は2つのキーワードが絡み合ってストーリーが進行する。ひとつが「昭和の超克」、もうひとつが「成熟」だ。前者はこの10年に前衛化した新しい問いで、後者はおよそ創作物において普遍的な問題設定でもある。本作はある意味では、素朴に「貧しかったが、温かく幸せな昭和」をノスタルジックに描く『ALWAYS 三丁目の夕陽』と対をなしているように見える。

本作で描かれるのは昭和という「宴の後」と、それをどのように乗り越えるのか、という日本社会が抱える切実な問いだ。夢のマイホーム、昭和においてはその食卓を温かく囲んだはずの家族、潰れるはずのない仕事。本作で登場する舞台装置は、いずれも現代においてはかつての自明性を欠く。「夢のマイホーム」は管理物件になって、手元を離れようとしている。温かいはずの家族はバラバラに暮らしている。父はペンション経営、妹は世界を旅する放浪家(グローバル人材?)、母はいない。主人公は、突如非正規と正規の中間のような職を失い、「ここ」に留まっている。いずれも現代的な選択肢だが、1人として幸せを確信した登場人物はいない。まさに現代社会の縮図である。

ここに絡んでくるのが成熟の問いかけだ。三人の少年たちが、主人公のもとに押しかけてくる。極めて昭和的な方法で。そこには現代のコミュニケーションを象徴する携帯電話も、PCも、DSも登場しない。一瞬、3人の子どもたちと、主人公が相互依存的に居場所と承認を獲得するかに見えるが、ストーリーは別のあり方を提示する。筆者の理解では、誰も成熟しないし、昭和を超克しない。結局のところ、現代の自明性の基礎には昭和的な関係性や資源が存在し、それを超克することはできず抱えて生きていくしかないという提示のように思えた。本作は時折「サトリ世代」の感性を切り取ったと評されているようだが、世代というよりも私たちが生きる現代の社会構造とその本質を静かに提示する。

---

なお、本作の公開を記念して、廣原監督の過去作等もオーディトリウム渋谷で上映するようだ。足を運んでみてはどうだろうか。

http://a-shibuya.jp/archives/7291

社会学者/日本大学危機管理学部教授、東京工業大学特任教授

博士(政策・メディア)。専門は社会学。慶應義塾大学総合政策学部卒業。同大学院政策・メディア研究科修士課程修了。同後期博士課程単位取得退学。慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科助教(有期・研究奨励Ⅱ)、独立行政法人中小企業基盤整備機構経営支援情報センターリサーチャー、立命館大学大学院特別招聘准教授、東京工業大学准教授等を経て2024年日本大学に着任。『メディアと自民党』『情報武装する政治』『コロナ危機の社会学』『ネット選挙』『無業社会』(工藤啓氏と共著)など著書多数。省庁、地方自治体、業界団体等で広報関係の有識者会議等を構成。偽情報対策や放送政策も詳しい。10年以上各種コメンテーターを務める。

西田亮介の最近の記事