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「そこだけはカズさんを超えた(笑)」39歳松井大輔がベトナムでサッカーをする理由

元川悦子スポーツジャーナリスト
ベトナム出発時にJALから贈られた寄せ書きを手に微笑む松井大輔(本人提供)

2021年1月17日、ベトナム1部・サイゴンFCの開幕戦に2万人近い大観衆が詰めかける中、キャプテンマークを巻いた松井大輔が力強く新天地デビューを飾った。

「これまで海外4カ国・8クラブでプレーしてきた経験を新たな国、新たなチームで還元したかった」と39歳にして再び海外挑戦に踏み切った男は目を輝かせた。

 今年5月には40歳になる。同い年の元日本代表FW・前田遼一や佐藤寿人らがユニフォームを脱ぐ中、松井はなぜ異国でサッカーを続けるのか。その原動力は一体どこから来るのか。本人が偽らざる胸の内を吐露した。

厳格な2週間の隔離生活を経て、ベトナムデビュー

 2020年12月5日のサガン鳥栖戦で3年間を過ごした横浜FCに別れを告げて1カ月。松井はベトナム最大の都市ホーチミンにいた。12月11日に日本を発ってから2週間は隔離生活を余儀なくされ、心身ともに極限に追い込まれたが、それを乗り越えて、ピッチに戻ってきた。

――ベトナム入りして現在までの流れは?

「隔離生活はキツかったです。空気感染を防ぐために窓もない部屋に14日間もいましたから。ドアを開けられるのは、ご飯が運ばれる時だけ。朝はベトナム語の勉強をして、それから昼飯を食べ、筋トレとバイクの有酸素運動をしてアイスバスに入る。夕飯を食べたら、ドラマや映画を見る生活を送ったので、体重は3キロ減った(苦笑)。体の線が細くなっていくのが自分でも分かりましたね。

 外に出てからもいきなりは負荷をかけられない。本来なら6~8週間かけて体を作るのをたった2週間で作って3週目で試合。ケガも怖いし、ホント綱渡りで開幕を迎えました」

――開幕戦はトップ下に入ったんですよね?

「はい。昔に戻ったみたいで楽しいですよ。でもボールが全然つながらない(苦笑)。パス3本目くらいで取られるし、『これは大変だ』って感じ。技術・戦術だけじゃなくて、審判やリーグ運営、グラウンドやスタジアムを含めて問題がいっぱいありますね。ベトナムサッカー自体が日本の1990年代のサッカーみたいかな。

 そういう中で自分は技術とプレーで見せていくしかないと思います。前は日本代表でしたけど、今は単なるベトナムリーガーの1選手。過去は過去だし、今持ってる能力を受け入れながらやっていくしかないですね」

新天地ではキャプテンで10番、トップ下を担う(写真提供:サイゴンFC)
新天地ではキャプテンで10番、トップ下を担う(写真提供:サイゴンFC)

――ベトナムの生活は?

「ホテル暮らしですけど、安全だし、みんなで外食にも行ってます。町はホントにデカい。今まで欧州の小さい町に住むことが多かったんで、この大都会ぶりにはビックリさせられます。道路はバイクがすごく多いから、運転手付きの送迎がありますけど、僕はここでも運転してみたい。新たな発見が多いですよ」

「燃え尽きた」南W杯からさすらいの人生

 さまざまな国を渡り歩いた20年間に及ぶプロキャリアの中で、鮮烈な印象を残したのが、日本代表だ。2010年南アフリカワールドカップ初戦・カメルーン戦で本田圭佑の決勝弾をアシストするなどの活躍をした松井だが、国際Aマッチ31試合1得点とキャップ数はそう多くない。ちょうど10年前の2011年アジアカップ(カタール)の大会期間中にケガをして離脱したのが最後の代表活動というのは、にわかに信じられないものがある。

――松井選手の代表出場はアジアカップの第2戦・シリア戦が最後ですよね。

「南アが終わって、代表への強い思いがなくなったというか、燃え尽きたというか…。スポルティング・リスボンへの移籍ができなくて、目の前が真っ暗になったのは本音。南アで活躍したことでどこかに驕りもあったし、周りの意見も耳に入らなくて、なんかフラフラ宙に浮いてた気がします。自分の中でやる気が失せた時期が1年あったんですよね」

2010年南アフリカW杯で魅せた輝きは多くの人々の脳裏に焼き付いている(写真:アフロ)
2010年南アフリカW杯で魅せた輝きは多くの人々の脳裏に焼き付いている(写真:アフロ)

――ケガで代表が終わった不完全燃焼感は?

「もともと『選ばれてもしょうがない』『アジアカップに行かなきゃいけないんだ』っていう気持ちがあった。そういうのもあって、ケガもなるべくしてなったってことなのかな。

 でも、あれから2年くらい経って、だんだん寂しくなってきました。あの場にいた自分を思い出したり、『もう1回選ばれたいな』と。代表がどれだけ誇らしく、素晴らしいものだったかは後々になって分かってきた。いつでも帰りたい場所、入りたい場所だって今になると改めて感じますね」

――その後の10年間はフランス、ブルガリア、ポーランド、磐田、ポーランド、横浜と来てベトナム。まさにさすらいの人生です。

「『いつやめていいのか』という引き際をずっと考えながら、ここまで来ました。28~29歳の時は『30でやめるんだろう』と思ってたし、カズさんも33~35歳の時に『いつかはやめる』って考えたらしいです。でも人生って分からないもので、こうやってベトナムに来ちゃってる。何か違うものを見たいから挑戦するわけだし、いろんなところにチャンスが転がってるとも感じる。今はインターネットで何でもできる時代ですけど、やっぱり現地に飛び込んでいって自分の目で見たい気持ちがあるから、あちこち渡り歩いてるんでしょうね」

(画像制作:Yahoo!ニュース)
(画像制作:Yahoo!ニュース)

「眠る場所を探しているのかもしれない」

 松井大輔の人生はチャレンジの連続だった。故郷・京都を離れて初めてフランスにサッカー留学をしたのが15歳。そこから鹿児島実業高校を経てJリーガーとなり、世界中を駆け回った。フランス語と英語を操り、どこへ行っても誰とでも仲良くなれるタフなメンタリティはグローバル社会を生き抜く模範と言っていい。そんな彼にとって、日本は狭すぎたのかもしれない。今回、40歳を前にベトナム行きに踏み切ったのは、むしろ自然の成りゆきだった。

――これまで日本にいて違和感はあった?

「自分は日本人だし、日本は大好きです。だけど、Jリーグを3年経験した20歳くらいの頃、『ここで得るものはもうない』と思ったし、住みにくさも感じましたね。日本には『郷に入れば郷に従え』とか『出る杭は打たれる』って考え方があるけど、僕は人と同じことをやっててもしょうがないって考えてた。いろんな国に行って、人や物事に触れることが絶対に人生のプラスになると強く感じています。圭佑も政治や社会のことを発信してたたかれたりしてますけど、絶対に曲げない。そういう人間がいてもいいんです。正解はないけど、どこにいても、自分に合ったものを探していけばいいと僕は思っています」

39歳での海外挑戦を憧れのカズは力強く後押ししてくれた(写真:森田直樹/アフロスポーツ)
39歳での海外挑戦を憧れのカズは力強く後押ししてくれた(写真:森田直樹/アフロスポーツ)

――行きつく先はどこでしょう?

「カズさんは『グラウンドで死ねれば、サッカー選手として万々歳』と言ってますけど、僕も眠る場所を探しているのかもしれない。正直、36歳くらいからは持ってる能力の70~80%しか出せなくなっている。余力でやってる状態ですけど、それでもオファーがあるなら、やっぱりサッカーがしたい。相手を抜いたりとかちょっとでも自分が輝ける時間があるからこそ、ピッチに立ちたいんです。ただ、このまま行ったら、眠る場所を探して、イラクとかシリアとか中東の方に行っちゃうのかな…(苦笑)」

――その年齢でオファーが来ること自体、すごいことです。

「確かにこの歳で海外ってのは、面白いっちゃ面白いですね。カズさんがシドニーFCに行った時は38歳だったんで、39歳でベトナムに来た僕はカズさんを超えられたなと。ついにそこだけは上回りました(笑)。

 とりあえず、今はベトナムで自分にできることを1つ1つやっていくつもりです。サイゴンFCのオーナーは日本に約25年住んだ日本通。アマチュアからプロ化を目指して施設や環境を変え、レベルアップをしたいから力を貸してほしいと言われています。その期待に応えるべく、体を奮い立たせて戦います」

 異文化を積極的に受け入れる柔軟性と向上心はいくつになっても変わらない。そして1サッカー選手の枠にとどまらないスケールの大きさを備えている。それが松井大輔という男だ。そのチャレンジングな生きざまは閉塞感の強い日本に大きな刺激を与えてくれるはず。ここからの活躍を楽しみに待ちたい。

【この記事は、Yahoo!ニュース個人編集部とオーサーが内容に関して共同で企画し、オーサーが執筆したものです】

スポーツジャーナリスト

1967年長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに。日本代表は非公開練習でもせっせと通って選手のコメントを取り、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは94年アメリカ大会から7回連続で現地へ赴いた。近年は他の競技や環境・インフラなどの取材も手掛ける。

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