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全仏オープン3回戦 錦織圭の辛勝を、対戦相手のチョン・ヒョンの視点から見てみる

内田暁フリーランスライター
試合後に握手を交わすチョン・ヒョン(左)と錦織(写真:アフロ)

○錦織圭 7-5,6-4,6-7,0-6,6-4 チョン・ヒョン●

「とても光栄だし、楽しみだ」

全仏オープン3回戦を控えたチョン・ヒョンは、アジア最高の選手との初対戦に向かう胸中を、そう素直に口にした。

約2週間前に21歳の誕生日を迎えたばかりの韓国人選手は、まるで、錦織圭がかつて歩んだ道を辿っているかのような若者でもある。チョン・ヒョンは12歳の時、世界最高峰のジュニア大会である“エディハー国際大会”と“オレンジボウル”の12歳以下部門で優勝。その活躍がテニス界の名伯楽ことニック・ボロテリーの目に止まり、即、IMGテニスアカデミーと契約する運びとなる。以降約2年間、錦織圭が拠点とするフロリダの世界最大規模アカデミーで、彼はテニスの腕を磨いてきた。

チョン・ヒョンがアカデミーに在籍した時期は、錦織が肘の故障のためアカデミーを離れた時期と重なることもあり、共に練習する機会はなかったという。ただ錦織の耳にも「韓国から来た、才能ある若い子がいる」という情報は届く。だからこそ、その後チョン・ヒョンがツアーで台頭しはじめた時には、やはり気になったのだろう。「彼の活躍は、ここ数年しっかり見ている。ストロークが良い選手で、特にバックはダウンザラインやクロスに打ち分けられる」。今回の全仏での初対戦を控え、錦織はそのようにアジアの後進を評した。

IMGアカデミー時代に錦織との交流はなかったチョン・ヒョンだが、日本からやってきた西岡良仁とはルームメイトにもなり、親交を深めたという。

「ヨシ(西岡)は凄くクール。よく声を掛けてくれた」

チョン・ヒョンがそう振り返れば、西岡も「僕や中川(直樹)君、松村(亮太郎)君と一緒に遊んだ。その頃は僕らも英語ができなかったので、ジェスチャーで頑張っていた感じです」と回想する。互いに異国に身を置き言葉にも不自由する中で、共有する郷里からの距離が、少年たちを結びつけたのだろう。

チョン・ヒョンが世界のテニスシーンにその名と存在を知らしめたのは、彼が19歳の時。ATPチャレンジャー(ツアーの下部大会)で立て続けに優勝すると、2015年全米オープンでは2回戦で、当時世界5位のスタン・ワウリンカにストレートで敗れるも、全セットタイブレークという熱戦を繰り広げる。ランキング167位でスタートしたこの年を51位で終えた彼は、アジアのみならず世界でも最も注目される若手の一人となり、同年の“MIP(Most Improved Player。選手投票により、年間で最も成長した選手に与えられる賞)”にも輝いた。

ただこの早すぎる成長に、肉体がついていかなかった点も錦織との符号がある。今から1年前の全仏で腹筋を痛めたチョン・ヒョンは、4ヶ月間のツアー離脱を余儀なくされた。その間にランキングは140位台にまで落ちたが、ただ、再び階段を駆け上がる足は驚くまでに速い。昨年9月に復帰すると、3ヶ月の間にチャレンジャー3大会で決勝に進出し、かつて居た場所へと再到達。特に今年の初夏は好調で、この約2ヶ月で16位のG・モンフィス、21位のA・ズベレフ、そして28位のS・クエリーと立て続けにトップ30選手を撃破。自信と実績を積み重ね、満を持して今回の全仏での錦織との試合に挑んでいた。

「緊張するかもしれない……」

そんな予感も抱きながら向かったコートで、彼は確かに、試合立ち上がりは硬かった。錦織の巧みな配球と展開の速さについていけず、先にミスする場面が目立つ。時折、錦織も警戒するバックのダウンザラインを叩き込み才能を光らせもするが、それらも単発に終わり錦織を追い詰めるにはいたらなかった。

2セットを連続で失い、後がなくなったその時に彼が思ったことは、ただただ「せっかくの圭との試合を、このまま簡単に終わりたくない」ということだけだったという。

「戦術を特に変えた訳ではない。ただ、全てのポイントで全力を尽くし、常に冷静にいることを心がけた。最初から最後まで、ファイトしようと思った」

その我武者羅かつ冷静なコート上での振る舞いは、徐々に結果として報われる。第3セットをタイブレークの末に奪うと、第4ゲームでは3ゲーム連取。苛立ちを隠せぬ錦織を傍目に、挑戦者は集中力を研ぎ澄ます。しかしこの時、灰色の空から落ちた雨が、赤土に黒いシミを次々と広げていく。

雨天中断――文字通り勢いに水をさされた追撃者には、翌日の再開後に、冷静さを取り戻したトッププレーヤーを押し切るだけの力はなかった。

あのまま、前日に試合が続いていれば良かったと思うか?

試合後に当然のように向けられるその問いに、彼は穏やかな口調で答える。

「そうだったかもしれない。でも、どうなったかは分からない。いずれにしても圭相手に5セットの試合ができたのだから、僕にとって良い試合だった」。

「圭と試合ができたことは、本当に光栄だった」

試合前にも口にしたその言葉を改めて繰り返すと、笑顔を浮かべて、彼は続けた。

「今日の圭は動きが速く、ストロークも素晴らしかった。とても厳しい試合だったが、僕は全力を尽くした。だから、次の対戦の日をまた待つよ」。

フリーランスライター

編集プロダクション勤務を経て、2004年にフリーランスのライターに。ロサンゼルス在住時代に、テニスや総合格闘技、アメリカンフットボール等の取材を開始。2008年に帰国後はテニスを中心に取材し、テニス専門誌『スマッシュ』や、『スポーツナビ』『スポルティーバ』等のネット媒体に寄稿。その他、科学情報の取材/執筆も行う。近著に、錦織圭の幼少期から2015年全米OPまでの足跡をつづった『錦織圭 リターンゲーム:世界に挑む9387日の軌跡』(学研プラス)や、アスリートのパフォーマンスを神経科学(脳科学)の見地から分析する『勝てる脳、負ける脳 一流アスリートの脳内で起きていること』(集英社)がある。

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