新型コロナ 英文誌での論文撤回 ここから私たちが学ぶべきこと
先日、New England Journal of Medicine(NEJM)、Lancetという2大臨床医学誌(少年誌で言えば少年ジャンプと少年マガジン)で新型コロナに関する論文の撤回がありました。
論文撤回というのは、一度掲載された論文が諸々の理由によって取り下げになることです。
NEJM、Lancetはどちらも非常に影響力の大きい医学誌ですので、臨床医の間では衝撃が走りました(「世紀末リーダー伝たけし」打ち切りくらいの衝撃)。
撤回されたのはどんな論文だったのか
NEJMの方は、新型コロナと心血管疾患や薬剤との関係を検討した臨床研究でした。
アジア、ヨーロッパ、北アメリカなど11カ国169の病院から8910人の患者が登録され、年齢、性別、基礎疾患、内服している薬剤などについて検討が行われました。
この結果、男性、心血管疾患、不整脈、慢性呼吸器疾患などの持病があることが重症化(病院内死亡)のリスクとなり、一方でアンジオテンシン変換酵素阻害薬(ACE阻害薬)、アンジオテンシン受容体拮抗薬 (ARB)という種類の降圧薬は重症化のリスクにはならないということが分かりました。
血圧を上げたり下げたりするのは、レニン-アンギオテンシン系と呼ばれる体内のシステムですが、このレニン-アンギオテンシン系を調整し血圧を下げる作用を持つのが、ACE阻害薬、ARBと呼ばれる薬剤です。
これらの薬剤を内服している人ではACE2の発現が体内で増加することから重症化しやすいのではないかという議論が行われていました。
しかし、この論文では「ACE阻害薬とARBは重症化のリスクファクターではない」という結果であり、皆一安心というところでしたが、5/4になってこの論文は撤回されてしまいました。
ちなみに、この論文以外にもACE阻害薬とARBは新型コロナの重症化と関連しないという報告はいくつも出ていますので、幸いこの論文が撤回されても新型コロナの医療の方針に関して大きく変わるわけではありません。
Lancetの方はクロロキン、ヒドロキシクロロキンという新型コロナに対する治療薬に関する観察研究でした。
こちらも世界中の6大陸、671の病院で登録された96032症例での検討という、非常に大規模な研究です。
クロロキンは抗マラリア薬、その類似体であるヒドロキシクロロキンはSLE(全身性エリテマトーデス)などに使用される薬剤ですが、実験室レベルでは治療効果が期待されていました。またトランプ大統領が予防薬として内服しているということでも話題となりました。
しかし、この研究ではクロロキン、ヒドロキシクロロキンが死亡リスクを増やすという結果でした。
これにより、クロロキン、ヒドロキシクロロキンは新型コロナの治療薬の選択肢としてほぼ消えかかってしまいました。
たとえば日本国内でも日本感染症学会の「COVID-19 に対する薬物治療の考え方 第4版」では、第3版まで記載されていたヒドロキシクロロキンの項目が消えています(筆者も編集に関わっています)。
世界保健機関(WHO)もこの論文の結果を受けて、臨床試験でのヒドロキシクロロキンとクロロキンの使用を一時中断しています。
この論文の影響は決して小さくはないと言えるでしょう。
しかし、この論文も6/4に撤回されてしまいました。
なお、このヒドロキシクロロキンについても、他に「治療効果なし」という報告が立て続けにメジャー医学誌(BMJ、NEJM)に掲載されていたことから、大勢としてはヒドロキシクロロキンは使用されない方向になっています。
この辺りの「結果が他の論文と比較しても大きく乖離していなかったこと」も不正が気づかれにくかった理由の一つかもしれません。
これらの論文の何が問題だったのか
5/28にこれらの論文に対する疑義が世界中の疫学や公衆衛生などの専門家から提出されています。
これら2つの論文はいずれの論文もサージスフィア(Surgisphere)という社員わずか数名のデータ分析会社のデータによるものでした。
この会社が世界中から症例情報を集めたレジストリからのデータを用いた研究とのことでしたが、専門家からは倫理委員会の審査がないこと、症例が登録された国と病院の名前がないこと、ある国の死亡者の数よりもその国にある1つの病院での死亡者数の方が多い、などの点が指摘されています。
これらを明らかにするためにデータの開示を求められたところ、サージスフィア社は「様々な政府、国、病院とのデータ共有契約のため、データ共有はできない」と回答しており、データ開示を拒否したことから、再検証は困難であるということで論文撤回に至ったようです。
後から見返してみると、クロロキンやヒドロキシクロロキンを投与された患者群の死亡率が高すぎるのですが、なかなかこうしたメジャージャーナルの結果を疑ってかかるというのは難しく、疑義を提出した疫学専門家の方々の彗眼に驚くばかりです。
イベルメクチンの論文もサージスフィア社のデータを用いている
さて、イベルメクチンという寄生虫薬が新型コロナに有効ではないかという話をご存知でしょうか。
イベルメクチンはノーベル賞を受賞された大村智先生が開発したノーベル生理学・医学賞を受賞した大村智先生の発見したアベルメクチンの化学誘導体ですが、イベルメクチンが実験室レベルで新型コロナウイルスを抑制することをオーストラリアのグループが報告していました(4/3にオンライン掲載)。
その後、ヒトに対してイベルメクチンが投与された症例と投与されていない症例を解析した症例対照研究が査読前論文として掲載されていました。実はこれもサージスフィア社のデータを使用した研究でした。
この論文によるとイベルメクチンを投与されていた患者ではされていなかった患者と比べて総死亡率が圧倒的に低かった(1.4% vs 8.5%)という驚異的な結果であり、臨床医の間では衝撃が走っていました。
しかし、一方で「ちょっと出来すぎてるよね」とか「なんか図がおかしくない?」とか「解析手法が変」とか、鵜呑みにできないなという意見の臨床医が多かったのも事実です。
この論文の対象となっていたのは「2020年1月1日から2020年3月31日までにCOVID-19と診断された患者」であり、3ヶ国169病院から704人のイベルメクチン投与患者、704人の非投与患者が登録されています。
何かおかしいことに気づきませんでしょうか?
イベルメクチンが新型コロナウイルスに有効かもしれないという実験室レベルでの研究成果がオンライン上に掲載されたのが4月3日なのに、3月31日までにイベルメクチンを投与されていた新型コロナ患者が(いくら世界広しと言えども)704人もいるのか、と。先見の明ありすぎやろ、と。
というわけで、おそらくこの査読前論文もサージスフィア社が(全てまたは部分的に)捏造したデータなのでしょう。
この論文は査読前とは言え、かなりインパクトが大きかったので、これを受けて実際にイベルメクチンを使用した医療機関もあったのではないかと想像します。
実際に南米のペルーではこの論文を受けて新型コロナの治療薬ガイドラインにこのイベルメクチンを選択肢として入れたそうです。
しかし、さすがにこの査読前論文はアラが目立ち、この論文からこのサージスフィア社の論文が疑われ始めたという論説も出ています。
この論文撤回事件から私たちが学ぶべきことは
新型コロナに関する論文は日々増え続けており、5月上旬の時点で7000を越えています。
これは、これまでの科学に関する論文の中で最も早く増加している分野の一つと言って良いでしょう。
また医学誌側も新型コロナに関する新しい知見を掲載したいというモチベーションがあります。
次から次に投稿される論文から、より多くの価値のある論文を見極め掲載するためには、査読の質も低下している可能性があります。
筆者もNEJM、Lancetの2つの論文については「NEJM、Lancetの2大臨床医学誌に掲載されているという安心感」から、最初から疑ってかかるということを放棄していた部分があります。
メジャージャーナルと言えども新型コロナ関連の論文は査読が不十分である可能性があり、結果をそのまま受け取るのではなく、これまで以上に批判的吟味が求められると言えるでしょう。