清洲会議後、秀吉に逆らって消えた3人の戦国武将
会社などで上層部に逆らって、悲惨な目に遭うことは決して珍しくない。天正10年(1582)6月の清洲会議後、羽柴(豊臣)秀吉は権力を掌中に収めた。これを良しとせず、秀吉に戦いを挑み、消えた戦国武将がいたので、うち3人を紹介することにしよう。
◎織田信孝(1558~1583)
織田信孝は信長の三男だったが、清洲会議後は羽柴秀吉と敵対し、柴田勝家と関係を深めた。天正11年(1583)4月末頃、秀吉は織田信雄(信長の次男)に命じて、信孝の居城の岐阜城を攻囲させた。
この頃、すでに信孝は頼みの勝家を失っており、敗勢が濃くなっていた。そこで、信孝は信雄の勧告に従って、岐阜城を開城したのである。信孝の身柄は、ただちに尾張国に送られた。
同年4月29日(あるいは5月2日)、信孝は内海大御堂寺(愛知県美浜町)で自害して果てた。信雄は秀吉の内意を受けて、信孝に自害を命じたといわれている。
◎柴田勝家(?~1583)
清洲会議後、柴田勝家は織田信孝と志を同じくし、羽柴秀吉に対抗する姿勢を見せた。天正11年(1583)1月、勝家と結んだ伊勢の滝川一益が秀吉に挙兵した。これに呼応して、勝家は北近江に侵攻したのである。
こうして勝家は、賤ヶ岳(滋賀県長浜市)で秀吉に戦いを挑んだが、敗北を喫したのである(賤ヶ岳の戦い)。戦後、勝家は居城のある越前北庄城(福井市)に戻ったが、もはや秀吉に勝利することは困難になっていた。
同年4月24日、勝家は妻のお市(織田信長の妹)とともに、燃え盛る北庄城で自害して果てた。その際、城を脱出したのが浅井三姉妹の茶々、初、江なのである。
◎佐久間盛政(1554~1583)
佐久間盛政は信長の家臣だったが、のちに柴田勝家に仕えることになった。天正11年(1583)4月に賤ヶ岳の戦いが勃発すると、盛政は羽柴秀吉方の中川清秀を討つという軍功を挙げた。
その後、戦局が変わったので、勝家は盛政に撤退を命じた。しかし、盛政は勝家の指示に従わず、秀吉方に生け捕りにされた。捕縛された盛政は京都市中を引き回しにされ、槇島(京都市宇治市)で斬首されたのである。