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AI時代でも揺るがない翻訳者の存在意義。パリで日仏翻訳文学賞授賞式開催

鈴木春恵パリ在住ジャーナリスト
モルヴァン・ペロンセル氏が仏語に翻訳した丸山眞男作品(写真は全て筆者撮影)

9月13日、パリ日本文化会館で日仏翻訳文学賞の授賞式が行われました。

この賞はフランス語から日本語へ、また日本語からフランス語へ翻訳出版された本を対象に、優れた作品を讃えるもので、小西国際交流財団が1993年に創設しました。

第28回目となる今年2023年度の受賞者と受賞作品は次の通りです。

日本側

受賞者:三野 博司氏

受賞作品:アルベール・カミュ『ペスト』、岩波書店、2021年

フランス側

受賞者:モルヴァン・ペロンセル氏

受賞作品:MARUYAMA Masao, Le fascisme japonais (1931-1945), Les Belles Lettres, 2021

(原作 丸山眞男『超国家主義の論理と心理』、『日本ファシズムの思想と行動』、『軍国支配者の精神形態』、1946, 1948, 1949年)

パリ日本文化会館では、このうちフランス側の受賞者、モルヴァン・ペロンセル氏への授賞式が行われました。

授賞式の様子。右がモルヴァン・ペロンセル氏。小西国際交流財団理事長の小西千寿氏から賞状、賞金、花束が手渡された
授賞式の様子。右がモルヴァン・ペロンセル氏。小西国際交流財団理事長の小西千寿氏から賞状、賞金、花束が手渡された

このような翻訳に特化した賞があるということをご存知の方はどれくらいいらっしゃるでしょうか。

何を隠そう、わたくし自身も今回初めてこの賞の存在を知った次第。そもそも翻訳という仕事に、華々しいスポットライトが当たることが稀でしょう。

この賞の創設には、「日仏の翻訳者の真剣な努力に応える活動を継続してゆく」という作家の井上靖氏の意思が反映されていると聞きます。

外国語で書かれた優れた作品を理解するには翻訳が不可欠ですが、その仕事は非常な労力を要するものだということは門外漢の私たちでも想像ができます。しかも、翻訳次第で原作の魅力が大いに左右されます。

「翻訳は単純に訳すことではない」と、受賞のスピーチで語ったペロンセル氏の言葉が印象的でした。彼はまた翻訳の仕事を映画制作に例えました。アクションの前後に膨大な道程があるというのです。

在仏日本大使も臨席して行われた授賞式でスピーチをするペロンセル氏
在仏日本大使も臨席して行われた授賞式でスピーチをするペロンセル氏

「前」にあたるのは、言語について習熟していることはもちろん、作家、作品、時代背景、人物を深く理解していること。

ペロンセル氏がこの作品の翻訳に費やした時間は1年半といいますが、中京大学の准教授、専門分野は政治思想史で、丸山眞男についての論文もすでに多数発表したという実績を持ってしての1年半です。

そして「後」にあたるのが、「読み直し」。それを何度も繰り返すことによって理解が変化、深化し、修正を加えつつブラッシュアップしてゆくのだそうです。

「ここはこうだと思っていましたが、やはりちょっと違います。あとは、この単語はあそこにも出てきますけれど、同じ訳語でなければならない、とか」

ペロンセル氏は日本語で私にそう語ってくれました。

モルヴァン・ペロンセル(Morvan PERRONCEL)氏。中京大学准教授。専門は政治思想史
モルヴァン・ペロンセル(Morvan PERRONCEL)氏。中京大学准教授。専門は政治思想史

ところで、外国語の翻訳といえば、機械翻訳の進化が昨今特に顕著です。海外旅行での言葉の壁はどんどん低くなり、スマホの翻訳アプリを使えば、その国の言葉を話せなくてもコミュニケーションができますし、レストランでの食事、買い物にも事欠きません。

ペロンセル氏にわたしは次の質問をしました。

「あなたの仕事はAI(人工知能)でもできますか?」

少々乱暴なこの質問に対して、彼はこう返してくれました。

「AIが翻訳家の仕事を利用するでしょう。AIはすでに存在する翻訳を使っていて、とてもうまく行く場合もありますが、それはまず人間の仕事の恩恵があるからです」

授賞式に招かれていた日本人翻訳家の方にも同じ質問をしたところ、「おそらく少なくとも10年くらいは、AIに変わられることはないのでは」と答えてくれました。

マニュアルや契約書など、形式の決まった文書は機械翻訳で代替可能でも、人文系の著作となると話は別。ペロンセル氏がいうところの、「前」と「後」の仕事に、いかに膨大な経験知が必要であるかが想像できます。

丸山眞男の原作(左)とペロンセル氏による翻訳本(右)
丸山眞男の原作(左)とペロンセル氏による翻訳本(右)

ちなみに、ペロンセル氏の今回の受賞作品は、およそ300ページに及ぶ本ですが、丸山眞男の文章の翻訳は約6割で、残りの4割は、前書き、年表、解説、登場する人物についての小辞典に費やされているのだとか。

「それによって、多くの人々がこの時代についてより理解を深めることができると思います。私自身がまずそうでした。この翻訳を始めた時、とても難しかった。なぜなら、首相がコロコロ変わる。何故? フランス革命と同じようにこの時代の日本を理解するのは簡単ではありません。たくさんの人物がいて、想定外の多くの出来事があった。それは戦争そのものを理解するよりも難しいことです」

確かに、1931年から45年までの日本の政治思想を理解するのは、わたしたち日本人にとっても高難度。丸山眞男がビッグネームであることは知っていても、その著書を理解している人はどれくらいいるでしょう。

ペロンセル氏は言います。

「丸山眞男はとても明解で、わかりやすいと思います。難解ですが、明解です。多くの書き手たちはその主題の周辺のことばかりを語っていて、それらの著述は理解はされますが、とても興味深いものではない。一方、丸山眞男は明解で、とても面白い。ゆっくりとしか読み進めることができなくても、それで良い。読む価値があるものだと思います」

文化交流とは、いかに地道な努力の積み重ねであることか。派手さとは無縁。けれども眩しいほどの理性と英知を持つ縁の下の力持ちたちの仕事があるからこそ、二つの国が深く結びついているのだとあらためて感じました。

パリ在住ジャーナリスト

出版社できもの雑誌の編集にたずさわったのち、1998年渡仏。パリを基点に、フランスをはじめヨーロッパの風土、文化、暮らしをテーマに取材し、雑誌、インターネットメディアのほか、Youtubeチャンネル ( Paris Promenade)でも紹介している。

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