樋口尚文の千夜千本 第11夜 「野のなななのか」(大林宣彦監督)
エロスと浪漫で燃えあがる反戦の緑の木
大林宣彦監督の作品はそもそも故郷の尾道を筆頭に柳川、観音寺、小樽、長野など地方の町を好んで舞台にしてきたが、ゼロ年代に入って作られ方が変質したのは、臼杵、長岡、そして今回の芦別といった町が単なる撮影舞台ではなく「制作拠点」となったことである。つまり、その町が主体となって製作費を集め、撮影を助け、大林映画を作る動きを起こしたということだ。
そんな地方の町の思いに応えて「ご当地映画」(大林監督流に言えば「古里映画」)を作るとなれば、作品はいっそうその土地の歴史に根差したものになる。そのことは、前作『この空の花 長岡花火物語』から特に徹底されていて、大林監督は長岡という町に堆積した歴史の記憶を(その秘められし逸話まで含めて)掘り下げ、またそこに住む人々の市民感情をさまざまにすくいとろうと試みた。だが、ここで驚嘆すべきはそのことに傾けられた監督の常軌を逸した激しさと熱気である。
『この空の花』の大林監督は、原爆と戦没者鎮魂の花火というバクダンつながりの歴史再訪という物語の軸を据えつつ、そこに過去から現在をまたいだおびただしい感情と情報の渦を巻き起こしてみせた。全篇を確かに反戦と反核の意志が強烈に貫いているのだが、それは決して絵に描いたような単線的な物語で表現されるのではなく、時として情理と虚実を往還しながらこれでもかと押し寄せてくる洪水のごとき画と音、言葉の饒舌を通して感じさせられるものだ。
そんな『この空の花』の凄まじさに茫然となっていたそばから、大林監督はなんと次なる芦別が舞台の新作『野のなななのか』を精力的に撮りあげていた。「なななのか」とは四十九日のことで、芦別に住む元病院長が92歳で大往生をとげたのをきっかけに親戚たちが集まり、いくぶん謎めいた老人の過去に思いを馳せる。その通夜から四十九日まで、現世の世俗に生きる人びとと死者(の若き日の姿も含む)が混然と同居し、生と死をめぐる問いかけが深められてゆく中陰の時間が本作の幹である。
その幹の部分では元病院長・光男(品川徹が好演)が太平洋戦争終結直前に樺太でソ連進攻を経験した陰惨な悲劇の回想が重要な核となるのだが、前作『この空の花』では長岡の土地と歴史と原爆をめぐる逸話がよそ者のジャーナリストである松雪泰子の目線でニュートラルに綴られ、彼女自身の成長譚にリンクしていたのに対して、本作では物語の導入役を大林映画常連の寺島咲がきびきびと務めながら、入れ子状の回想の核心部分には老いた光男の巨大な喪失感にとらわれたような(感じに私には見えたが)語りをもって踏み込まれる。もちろんその品川徹という語りの主体は大林宣彦その人と大いに重なるものを感じさせ、本作は『この空の花』に比べると俄然本来の大林映画的な浪漫と性=愛と倒錯美に彩られたものになっていて嬉しい。
特に、その品川徹の回想で際立つ場面は、若き日の戦時中の光男が、思慕を寄せる綾野という女性(安達祐実)の裸像を描きたいと強烈に希望するところだ。そこでは絵を描くことは「その人を自分のものにしたいという欲望だ。あるがままに、その人自身のままで」とされ、「あなたを描くなら裸身を描くべきだろう」「あなたの上を、着物の線で汚して、匿して、それが何であなたなのだ」「何も付けないで欲しい。あなたがあなたであるその上には。生まれたまんまの、あなたのままでいて欲しい」と、光男の裸像への思いが激しく吐露される。
思えば、大林監督自身も自らの映画でヒロインの裸身を撮ることに執着を見せてきたわけだが、常々不思議な感覚を抱いたのは、そうやって裸身を露わにしたヒロインの数々が、まるで赤ん坊を撮るかのように、飾らずありのままに映されていたことだ。それは煽情性を削いだとかそういう域のものではなくて、もはやそっけないほどのまんまの印象であった。そのわけが、本作を見て漸く腑に落ちる感じであったが、まさにそんな愛するものの裸身をそのまま自分のものにしたいという個のささやかだが底知れない性=愛の営みを、あっさりと蹂躙してしまうのが戦争だと本作は主張する。光男の裸身を書きたいという欲望は、直後の戦争の爆音によってむげに遮断される。
この名状し難い性=愛が「立体」だとすると「この世界や、花も草も人間も、みんな立体」であって「立体を線で描くなんて無謀だろう。相手を平面にしちまうなんで無礼ではないか」と思うほかないのに、「線を引くから戦争が始まる」と憤る本作にあって、愛する人の裸身を描きたいという究極の「立体」的な性=愛に駆られつつ戦争に阻まれ、その無念を抱えて生きて来た老人・光男のもとに、綾野のリーインカーネーションと言うべき女性・信子(常盤貴子)が現れる。無念さとともに封印してきた光男の実らなかった性=愛がここで突沸し、彼は信子の裸像を描くことに執念を傾ける。そしてこのかけがえのない愛の営みを奪うものが戦争なのだと、本作は光男の性=愛を足場としながら戦争の虚無を訴える。この足場の違いゆえ、本作は同じく反戦、反核を主題とする『この空の花』とはかなり趣を異にし、老いた光男が半身を剥き出しにしつつ、あたかも性戯に挑むようにカンバスに信子の裸身を描く場面の過剰で倒錯的な味が、本作を通りいっぺんの反戦映画ならぬ大林監督らしい異色作にしている。その作品を貫くエロスを照射された常盤貴子は、全ての登場場面において美しい。
こんな妄執に近いともいえる長年にわたる強烈な性=愛の記憶への傾斜やその愛のリーインカーネーションを夢見ることは、同じく北海道は小樽を舞台にした1993年公開の力作『はるか、ノスタルジィ』にもはるか連なるもので、まさに本作の幹の部分にはそういった大林監督ごのみの主題やモチーフが目白押しである。そして、この図太く異様な生気みなぎる幹から派生したさまざまな感情と情報の枝葉がはびこり、時として幹を覆い隠さんばかりであるのがまた面白い。
たとえば、今やとってつけたような奇妙な廃墟じみている芦別のカナディアンワールドを指して、「町おこしじゃなくて町こわしね」「赤毛のアンの家もあるらしい」というシニカルな会話が飛び交う場面。尾道三部作、新・尾道三部作の成功は、同じようなひなびた地方の町に、あんな映画を地元で作れたらなあという夢想をかきたてた。大林監督は、その過去の秀作群が与えた印象によって、映画による「町おこし」をやってくれる人だと期待されるようになっているわけだが、自らの作品が地域に一過性の観光ブームをもたらすことを監督はよしとして来なかった。なぜならそれは町本来のよさを損ない、かつ旬やブームは忽ち終わってしまう。したがって、このかつての芦別の観光施設批判は、大林映画は地域を掘り下げる「ご当地映画」(ここでこそ「古里映画」と言うべきか)ではあっても、「ご当地振興のための御用映画」ではないぞという姿勢の決然たる表明でもあろう。本作の縦横に伸びる枝葉の部分では、観客はこういったさまざまな次元の事柄に思いをめぐらすことになる。
こうして全篇を見ながらふと慄いたのは、ここに去来するあまたの登場人物の、そのすべての饒舌がどこか独り言のように聞こえたことだ。こんな数多くの人物が集い、ほとばしるような発言を重ねるものの、それぞれの人は実に孤独に見える。それは、小津安二郎の映画に登場する人物たちが皆別々の宇宙に生きているように見えるのと同質のことで、75歳の大林監督ならではのある境地とも言えるだろう。だが、それでもなお孤独な魂の交錯するところにはかなげな性=愛の深い思いが生まれいずるのではないかという浪漫主義が、何よりの大林調である。
それにしても、フェリーニの楽隊よろしくねり歩くパスカルズのメランコリックな調べをバックに、生ける人々があたかも死者と同居しつつ、その思い深き伝言に耳をそばだてているという中陰の時間を描きながら、大林監督と作品に横溢するこの圧倒的な生命感は何なのだろうか。ここで私は尾道の映画資料館に飾られている百歳目前の新藤兼人監督の色紙に大書された言葉を思い出す。「生きてるうちは 生きぬきたい」。「野のなななのか」は、生と測りあえるほどの死を描きながら、あくまで「生きぬく」映画なのである。