松田直樹とは何者だったのか?日本サッカー史上、最も記憶に残るセンターバックを悼む。
2010年12月、日産スタジアム。彼は泣きはらした赤い目をして、ミックスゾーンに出てきた。16年間を過ごした横浜F・マリノスから戦力外通告を受け、最後の試合だった。帽子を被り、視線は真っ直ぐ、遠くを見つめたまま歩く彼は、取り囲む記者たちに一瞥もくれなかった。少しでも口を開けば、心の中でなにか大事なものが壊れてしまいそうだったのだろう。
少なくとも、そう見て取れた。
筆者はそのとき、わざと遠巻きに見つめ、声をかけていない―。
8月4日の命日、当時の風景を思い出す。
松田直樹とは何者だったのか?
松田直樹とは何者だったのだろうか?
松田はJリーグのマリノスで連覇に貢献するなど長く活躍。02年の日韓ワールドカップでは、フィリップ・トルシエ監督の率いる日本代表の守りを支えた選手である。大柄だが俊敏で、敵を呑んだような剛胆な守備が特長だが、むしろ代名詞となっているのは攻撃参加で敵に斬り込んでいくような姿かもしれない。Jリーグ史上最高のディフェンダーの一人であることは間違いないだろう。
2011年8月、当時34才だった松田は、所属する松本山雅での練習中に心臓発作で倒れ、そのまま息を引き取った。
拙著「フットボール・ラブ」(集英社)では、彼が過ごした最後の1年を書き綴っている。自分の中にある燃料を燃やし、前に進むような男の肖像を描いた。
「俺は自分を追い込み、死ぬ気でサッカーをやって来た。日韓ワールドカップの前は、アドレナリンが出まくってたね。『一番になれ』といわれると俺は嬉しくてさ! 自分は目立ちたがり屋だから、そのためならマゾにでもなんにでもなれたよ。才能はなかったけど、自分の体をいじめられた。苦しくてつらいんだけどさ、誰かに負けるよりもよっぽどマシだから」
松田は一気に捲し立てた後、寂しそうに照れた。その表情は、今も忘れられない。
命がけだったワールドカップ
筆者が彼に会ったとき、その燃料はすでに尽きかけていたのだろう。
「燃えることのできない自分に気づいてしまった」
彼は思い詰めたような顔でそう言った。日韓ワールドカップの熱狂は喪失感となり、2006年のドイツワールドカップの前に監督と衝突し、代表から外され、居場所も狭めた。自らを奮い立たせるきっかけを探していたのだろう。筆者が世界をまわって目にしてきたサッカーの風景を話すと、彼はその話に貪りつくように興味を示した。彼にとってはサッカーを続けていく燃料になるなら、木くずや紙くずであっても良かったのだろう。
火の玉のようだった男は、全身を覆っていた猛火がだいぶ衰えていたことを肌で感じていたが、それでも彼は燃えたがっていた。リーグのカテゴリーを二つも下げ、松本でプレーするようになったラストシーズン、彼は利き足である右足をほとんど使えていなかった。右膝はケガの影響によりぼろぼろで、左足だけでどうにかピッチに立っていた。自分を追い込んできた男が、もはや追い込むことができなかった。
「俺にはサッカーしかない、と思って生きてきた。でも、最近は自信を失いそうになる。そんな自分をしょっちゅう殴っている感じだね」
松田は燃料が尽きてしまった後、己の肉体そのものを燃やしていたのだろう。その姿は切実すぎた。
松田の人生観
「格好いいか、だせぇか」
松田はいつだって、そのどちらかで生きていた。最後まで生き方を貫いたことには、男として少なからず嫉妬を覚える。彼は思ったことをそのまま口にできたし、すぐに行動することもできた。その純粋さも、眩しいほどだった。感情量の多い男は歯に衣着せぬ言動をしたが、不思議と周りに恨まれてはいない。そこに打算がないから、憎まれないのだ。
なにより、情感が豊かな男だった。
冒頭のマリノスでのラストマッチ、彼は私が声をかけなかったことを感謝していたという。そういう記述が、遺品として残されたノートに記してあったと後で聞かされた。大勢の関係者が詰めかけた状況で、彼の心は澄んでいたということか。
松田は早く逝き過ぎた。あそこまで自分を追い込み、周りには優しく振る舞える男が指揮するチームを、指導する選手を、心底見てみたかった。松本の選手たちも、彼の影響を強く受けていた。本人も気づいていなかったが、松田には指導者としての素養があったのである。
「俺にはサッカーしかないんだよねー」
彼ははにかむように言った。明るい陽光を受けた顔は、目映いほど光り輝いてた。