教育への政治介入を告発した『教育と愛国』は二重の意味ですごい映画だ
テレビ現場からテレビを問い直す動きが
MBS(毎日放送)製作のドキュメンタリー映画『教育と愛国』が5月13日より全国公開される。教育の現場を長年追い続けた斉加尚代ディレクターが監督を務めたものだ。
この20年ほど政権が意図して激しい政治介入を行ってきたのは教育とメディアだ。教育については、日の丸君が代が踏み絵とされてそれに抵抗する教師が次々とパージされた。同時に教科書検定への介入も行われ、従軍慰安婦などの記述は削除されていった。
映画『教育と愛国』は、そうした教育現場への政治介入の動きを追ったものだ。何が起きていたのか経緯が丁寧にまとめられている。
教育へのそういう介入については、一時期社会的話題になったが、ここしばらくは正面から批判の声もあがらず何となくタブーになってきた観がある。恐らくそれだけ支配が貫徹したということなのだろう。映画『教育と愛国』はそうした流れに対して正面から批判的に取り上げたものだ。こんなふうにきちんと取り上げたのは久々だなという意味で、すごい映画だと思う。
この映画がもうひとつの意味ですごいというのは、これを製作したのが関西の準キー局、MBSだったという点だ。マスコミ、特にテレビへの政権の介入が強まり、権力への忖度から自主規制が横行していると言われる中で、大手のテレビ局がこの映画を製作した意味は大きい。
忖度が横行しているテレビ界と今書いたが、実はこの2~3年、それに対して疑問を呈する映画が続々作られている出ている現実もある。東海テレビの『さよならテレビ』、チューリップテレビの『はりぼて』、そして鹿児島テレビの『テレビで会えない芸人』など、テレビ局がテレビ自身を俎上にあげる映画が続いているのだ。自主規制だらけのテレビのあり方に、テレビ人自身がメスを入れようとする試みだ。
今回の『教育と愛国』も、今後予想される反響にMBSがどう対応するのかも含め、テレビのあり方について考えさせる素材になり得ると思う。この映画が成功するかどうかは、教育現場とメディア界の今後の行方を占うと言っても過言ではないかもしれない。
今回、監督を務めた斉加尚代ディレクターと、澤田隆三プロデューサーに話を聞いた。このインタビューで語られている内容がかなり興味深い。月刊『創』(つくる)5月号に掲載したものだが、全文転載しよう。
学術会議任命拒否問題がひとつのきっかけに
――本作『教育と愛国』は元々がギャラクシー賞を受賞したMBSのテレビのドキュメンタリー番組がベースになっているのですね。
斉加 テレビ版は2017年7月の放送です。もっと早く映画にという話はあったし、私自身も企画書を書いたのですが、具体的に動き出さなかったんです。社内ではドキュメンタリーはビジネスとして成立しないという空気が強かったのです。
けれど、社外から強く応援してくださる声があり、この1~2年、TBSがドキュメンタリー映画祭へと舵を切ったことも追い風になって、何とか実現に至りました。
――土台となるテレビ版で特筆すべきことは、2017年度の作品としてドキュメンタリーだけでなくドラマやバラエティなども含んだテレビ部門大賞に選ばれたということですね。
斉加 まさか大賞とは思っていなかったので、MBS上層部は授賞式にほとんどいなかったのです(笑)。
授賞式に来ていたNHKのディレクターから「どれぐらいの人数でどれぐらいの年月をかけて作られたんですか」と聞かれて、いやディレクターは私1人で3カ月足らずですと言ったら驚かれていました。
MBSの場合、『映像』シリーズという月1回深夜に放送するドキュメンタリー枠があり、1人のディレクターが年3本は作るんです。ギャラクシー賞を受賞した直後に映画にしたらどうですかと言ってくださる人もいたのですが、職場はギリギリの人員ですから、その時は到底無理だと思ったんです。2020年に入り、さらに映画化を後押ししてくれる方々が増えましたが、その時点でも社内に厚い壁があり、無理だと思っていたんです。
ところが2020年10月1日に日本学術会議の新会員任命拒否の問題が起き、自分の中で衝撃が走りました。教育の自由や学問の自由を正面から扱う番組というか映画が求められている時代じゃないかと思って、そこから人生最大のギアが入ったんです。
いよいよアカデミズムにまで政治支配の影が忍び寄ってきたことに対して、時代が逆戻りするような、戦慄を覚えました。とにかく突破していかなきゃ駄目だと思って本格的に交渉を始めたという経緯ですね。
政治介入は公教育の普遍的価値を破壊する
――5年前の作品を2022年に映画版にするにあたって追加撮影などでポイントにされたのはどの部分でしょうか。
斉加 『教育と愛国』は107分の映画ですが、半分ぐらいは5年前のテレビ番組の取材から作られています。あと半分はその映画の企画書を出して以降、なんとか映画になりそうだとわかって走り出した取材です。テレビ番組は教科書検定制度の問題に焦点が当たっていますが、さらにテーマを広げたということです。「表現の不自由展かんさい」の映像などは、去年の夏の取材です。
――特に安倍政権の頃に教育への政治介入は激しさを増すわけですが、そういう流れに真っ向から疑問を呈している映画ですよね。MBSとしてもなかなかすごい取り組みだなと率直に思いました。
斉加 ただ強調しておきたいのは、これは自民党や日本維新の会など特定政党に対してだけではなく、どの党であれ政治圧力や介入を看過することは、公教育の普遍的価値を破壊することになりませんか、と問いかけをしている映画なんです。ミャンマーの軍事クーデターに反対している大阪のミャンマー人の方は「ミャンマー国軍が民衆を虫けらのように殺せるのは政治が教育を乗っ取った結果なのだ」と言います。最悪の場合、行き着く先は戦争なんです。
元々私自身が大阪の学校現場をずっと取材してきて、大阪維新の会が次々と数の力で教育関連条例を作って先生方を締め付けてきたのを見てきたのですが、その動きと実は安倍政権のいわゆる「教育再生」という改革が水面下で結びついていたことに少し遅れて気づきます。大阪が教育行政を変えていく先陣を切る役割を果たし、その後文科省も追随し、教育委員会制度や検定基準を変えていく流れが作られたんじゃないかと感じたのです。その違和感が、だんだん大きくなっていく過程を映画に盛り込んでいます。
橋下徹さんとのバトルは映画のテーマにも通底
――斉加さんは、2012年、当時大阪市長だった橋下徹さんの記者会見の席でバトルになったことが報じられましたが、ネットなどでは、その質疑内容に注視せず、バトルのみが、切り取られて消費されるという、あれは本作のテーマにも通底する事件でした。
斉加 なぜバトルになったかというと、卒業式で先生方が君が代を歌っているかどうか口元をチェックした大阪府立高校の校長がいて、私はそれを内心の自由に踏み込むとんでもない事態だと受けとめました。けれど、当時の橋下市長は素晴らしいマネージメントだと称賛したんです。私は、府立高校の校長たちにアンケートを実施し、現場の校長たちも口元チェックは教育にふさわしくないと言っている事実を前提に質問しましたが、論点をずらされ30分ぐらい激しいやりとりになり、その様子が報道されました。
――その後、沖縄に関するヘイトやフェイクニュースに分け入って事実をあぶり出すドキュメンタリーを制作されました。
斉加 『なぜペンをとるのか』は、2015年9月に放送した番組です。橋下さんとバトルした時はニュース現場の記者でしたが、15年の7月からドキュメンタリーチームに配属になったのです。
私自身、入社時にいずれドキュメンタリー制作者になりたいと思って仕事を続けてきました。『映像』という存在があったからこそ続けられたと感じています。
――本作にも慰安婦として性被害について初めて訴え出た金学順さんの映像が使われており、MBSの分厚いドキュメンタリー史を見る思いでした。
斉加 1980年から毎月1本作り続けてきた実績があるんです。その『映像』シリーズは去年500回を迎えたんですが、その蓄積というのは大きいです。さきほどMBSの取り組みが意欲的だとおっしゃってくださいましたが、今回映画で描いたような内容は、かつて普通にテレビで放送できた時代があったんです。
慰安婦や戦争責任はテレビでタブーになった
――ここ10年ほどで慰安婦問題や戦争責任の問題はテレビでタブーになってきている感がありますが、確かにかつては制作していましたよね。
斉加 普通に取り上げていたと思います。おっしゃるように『教育と愛国』の中で、自分は慰安婦被害者だと名乗り出た金学順さんが登場するんですが、これは1991年の『映像』作品の中の一場面なんです。当時はごく普通に戦争加害についての報道がなされていた。それはMBSだけじゃなくて、各テレビ局、各新聞社も報じていたのです。それがいつの間にか今のように萎縮する空気になってしまったんですね。
――今回の映画を含めて、MBSには、ドキュメンタリーへの取り組みについて、強い意志が現場にあるということですか。
斉加 そうです。ただ局内には私の手法を全面的に支持しない人もいます。実際橋下さんとバトルした時も、私にとっては普通の取材でしたけれども、局内ではそう受け止めない人もいました。今のメディア全体の状況とMBSの局内というのも、相似形というか似ているところがあると思います。そこは綱引きですね。
取材拒否はリベラル側の方が多かった
――『教育と愛国』は、例えば教科書から慰安婦の記述が消えていくような流れに反対の人だけでなく、消していく側の政治家や学者の取材も含まれていますね。そういう人の中で映画の趣旨に反発する人はいなかったのですか。
斉加 例えば東大名誉教授の伊藤隆さんは、テレビ版のDVDもお送りし、その後のメールのやりとりも経て、今回の2回目のインタビューに応じていただいています。番組の趣旨も正直にお伝えしました。ですから伊藤さんは映画に出演するということは十分承知されてらっしゃいます。ただ「期待はしておりません」とはっきり言われます。でもそこはやはり学者としての矜持というんですかね。自分の研究実績を踏まえて発言しているんだという、その矜持はインタビュー中においても強く感じましたし、迫力がありました。伊藤さんも自分はかつて岩波書店の『思想』という雑誌に論文を掲載したことで酷く個人攻撃を受けたと。学者というのはそういう世界で生きているというお話もされていました。
一方で取材を申し込んでも、断ってこられたリベラルの学者さんですとか、むしろ取材拒否はリベラル側の方のほうが多かった気がします。
――それはつまり映画に出ることでまた攻撃がくるのを避けたということですね。
斉加 そうです。そういう個人攻撃は、決してネットの中だけではなくて、現実にいろいろあるんだということも、取材を通してわかりました。
――斉加さん自身に対してもバッシングはあったと思いますが。
斉加 橋下さんへの取材時が一番激烈でしたので、その後の個人攻撃は鈍感力がついてしまったのか、そう気になりません。「極左ディレクターを辞めさせろ」「テロリストが作った番組は放送するな」など批判のメールや電話は寄せられます。
私は2018年に『バッシング~その発信源の背後に何が』という作品も制作していますが、これは科研費をめぐるバッシングの他に「余命三年時事日記」という在日コリアンに対する差別意識から作られたデマブログによって、全国の弁護士に大量の懲戒請求が押し寄せた事実を取り上げました。そのデマブログの発信者に取材したり、煽られて懲戒請求を送った人たちが「不正の中身は知らない」と軽い調子で語ったりする内容です。
この番組を作った時も、放送前からネット上で名指しされました。でも、それも含めて自分の取材対象にして伝えていくという、ある時からそういう姿勢になっていきました。いわゆる「ネトウヨ」の行動パターンも、正体がわからない当初は怖いという気持ちもあったのですが、観察してやろうと思った時から、「面白い動きするなあ」と変わっていく。まるでイナゴの大群みたいにバーッと私を狙ってきたかと思うと、ぱっと違う人のもとへ去っていく。そういうネットの中の動きというのも、取材対象として興味深く見てきました。『バッシング』は、自分が狙われることを想定して制作しています。
――ディレクター自らが標的になってそれを撮影したのですね。
斉加 『なぜペンをとるのか』は、澤田と初めて組んだ作品ですが、その後2017年に沖縄デマや地上波で流れたヘイト番組『ニュース女子』沖縄基地特集(DHCテレビ制作)を検証した『沖縄 さまよう木霊』、さらに同年にテレビ版『教育と愛国』を制作し、翌18年12月に『バッシング』を放送しました。この4作品はそれぞれ対象は違うんですが、新聞、テレビ、出版、SNSという民主主義の根幹と言えるメディアの問題も映し出していて、4作品とも繋がっています。実はその背景を書き上げた書籍を4月15日に刊行します。『何が記者を殺すのか』(集英社新書)。映画を観て一緒に読んで頂ければ、その4作品の繋がりと映画へ向かった必然性をご理解頂けると思います。
――承知しました。プロデューサーの澤田さんにもお聞きしますが、今回の映画『教育と愛国』について、MBSはどう受け止めてどう関わろうとしているのでしょうか。局全体として推進するという雰囲気なのですか。
澤田 コンテンツ戦略局に映画事業を担当するセクションがあります。ここは例えばTBSが主にやるドラマ系の映画に何割か出資をし、製作委員会方式で出資割合に応じてリターンを得るということを主にやっているところですが、自前で映画を作って劇場公開するというのは今までほとんどありませんでした。
社の事業として予算もついて動き出しているので、いまはビジネスとして取り組んでいるという感じですね。斉加のこれまで作ってきた作品に共感、支持をする人は多くはないかもしれませんが社内にもいるので、そういう人たちからは言葉とかメールで激励や支援の言葉を頂いています。全社挙げて盛り立てていこうという空気は、公開前の今のところ、そう大きくはなくて、むしろ静かに見ているというか、様子見という感じですね。
ただ、今回の『教育と愛国』がうまくいって、いくらか黒字が出るようなことになれば、ドキュメンタリーで次もいけるという空気が出てくる可能性はあるので、そうなってほしいというのが斉加と私の今の思いです。
ドキュメンタリー映画も、これで終わらせることなく、TBS、あるいは先駆者である東海テレビが作ってきた潮流がありますので、できたらそれに加わっていければいいなと。その意味でもこの作品は、成功させたいと思っています。
――『教育と愛国』のテレビ版放送時は右派からの攻撃もあったのですか。
澤田 深夜枠だったこともあってか、そういうものもそれほどなかったですね。2017年度のギャラクシー賞で大賞を取って、そこで評価が変わったという感じです。ドキュメンタリー番組にとって賞というのはものすごく力になります。
斉加 私自身も、番組はインタビュー中心だし、教科書の話ですから、果たして多くの人に興味を持って観てもらえるんだろうかという気持ちでした。ただインタビューそのものは、こちらが心づもりしていた以上のことを語って頂けて、いわば調査報道といえる内容を掴んだかもしれないという手ごたえはありました。
犠牲を払って築かれた公教育の価値を伝えたい
――映画後半に出てくる平井美津子先生もすごいですね。覚悟を持って応じていることが伝わってきます。
斉加 私が以前から親しくしていた先生で、当時の吉村洋文(大阪)市長から攻撃されている状況をリアルに取材していたんですね。これは授業の内容に政治が手を突っ込んでいる異常事態だと思ったんですが、でも当時それをニュースで放送できたかというと、先生へのバッシングにさらに火をつける恐れがあってできなかった。ずっと自分の中で、これは報じなければいけない、政治介入なのに報じることができなかったというわだかまりが残っていたんです。ですから映画制作にあたってもう一度、平井先生に取材させてほしいと申し込みました。迷われたと思うんですけれど、「いいですよ。私も覚悟を決めます」と受けてくださったんです。「映画に出ることによってまた攻撃されるかもしれない、それでも大丈夫ですか? もちろん私も一緒に闘いますけれども」と伝えた上で、撮影取材を受けてくださいました。
平井さんの場合は、彼女を標的にしている政治家がいるんです。例えば沖縄戦の授業の副教材について情報開示を求めたり、議会で質問したりして教育委員会に圧力をかける。平井さんが書籍を出版すると、議員がツイッターにアップし自分の支持者に広く知らせる。こうしたことも覚悟の上とおっしゃっています。
――政治に抑え込まれてきた教育現場の突破口になるかどうかという意味で大事な映画ですね。
斉加 そうなんです。ただ繰り返しになりますが、決してアンチ自民とかアンチ維新という立脚点ではなく、教育に対して政治が過剰に介入することは、社会を壊しかねない危ないことですよ、そこを感じ取ってもらいたいのです。
実際戦前の日本は戦争に近づくにつれて教育現場への介入を強めていきました。教科書が権力の代弁者となり、じわじわと軍国主義的な色を帯びていく、その結果が戦時中の国定教科書です。だから今、再び変化していくのを見逃さないでほしいという願いを込めた映画なんです。教育の普遍的価値というのは学問に立脚するものです。多くの犠牲を払って築かれた公教育の大事な価値を伝えたい、そういう思いで制作しました。
映画『教育と愛国』の公式ホームページは下記だ。