樋口尚文の千夜千本 第114夜「ファントム・スレッド」(ポール・トーマス・アンダーソン監督)
恋模様の不思議を立体裁断
特異なキャラクターたちの個性がぶつかりあう群像劇を身上とするポール・トーマス・アンダーソン監督が、1950年代のロンドンのオートクチュール界を題材にするというので、その目先を変えた意図は奈辺にありやと興味津々で観たが、背景設定だけでなく登場人物の数もぐっと絞られていて、新境地を目指そうという意欲が溢れていた。ダニエル・デイ=ルイス扮する主人公のドレスメーカー・レイノルズは、オートクチュール界で注目を集める名うての職人だが、そんな彼がウェイトレスのアルマ(ヴィッキー・クリープス)に惚れこんで彼女に合わせてドレスを作ろうとする。
この二人の関係は当初独特で、アルマはレイノルズから恋愛感情を抱かれたのかと思いきや、アトリエに彼女の部屋まで用意してあるのに、ひたすらドレスのフィッティングを求められるだけである。つまり、レイノルズにとって、彼女はあくまで理想のドレスに到達するための「手段」なのであって、自分の創作意欲をかきたててくれる(厳密にはアルマは何をしているわけでもなく、レイノルズが勝手な思い込みで彼女に鼓舞されているだけなのだが)存在なのである。レイノルズにとってはドレスの美こそが究極の「目的」であって、アルマが実はどういう女性であって、何を考えているかなどはまるでどうでもいいことなのだ。
レイノルズには長年の仕事のパートナーでもある姉のシリル(レスリー・マンヴィル)がいて、理知的でいつも沈着冷静な彼女はレイノルズの美学も好みも習慣もすべて理解している。とにかく全身全霊をドレスに捧げている気難しいレイノルズがシリルとつつがなくやれているのは、なにぶん姉なので邪魔な恋愛感情とは無縁で、彼女がレイノルズの「手段」に徹しているからなのだろう。一方のアルマは、何から何までシリルとは対極で、もともとごく庶民的なウェイトレスであり、朝食もガチャガチャと音をたててたいらげてはレイノルズを呆れさせるという、きどったオートクチュール界の空気には全く不似合いな女子である。
ところが縁は異なもの、この美的で静寂を好み偏屈な自我にこりかたまっている頑固職人のレイノルズが、生命力は横溢しているが欲望に忠実で飾らずがさつなアルマに惚れこんでしまう。もちろんそれはあくまでドレスのモデルということで執心しているのであって、レイノルズは生身のアルマではなくイメージの、見てくれのアルマに惹かれているにすぎないのだが、それにしてもこの小うるさいほどエレガントなレイノルズがなんでこんなはすっぱな娘に惹かれるのだろう、というところはおかしい。よく恋愛は勘違いから始まるというが、これはまさにそのたぐいである。
この好みのフシギには、レイノルズを知り尽くしたシリルはすでに慣れっこなふしもあって、自分がモデルを要請されていることに納得できないアルマに「彼は丸いお腹が好きなの」と言い放つ。事ほどさように、この落ち着いたアトリエに、レイノルズがアルマを引っ張り込んできたところでシリルとの三角関係が発生しないところが面白い。シリルはレイノルズのこうした気まぐれも、彼が恋愛感情で動いていないことも熟知しているから、三角関係になどなりようがないのである。
ところが、このレイノルズとシリルのきょうだいが暗黙の了解で築いてきた恋愛抜き、美学が全ての城塞が、行儀よく落ち着いてはいられないアルマの闖入によって崩れていく。当初は怪訝にレイノルズの人形をつとめていたアルマだが、徐々に真摯で純粋なレイノルズへの愛情を募らせてゆく。しかしレイノルズにとってその自分の鉄壁の美学や生活ペースを崩されるアルマの恋愛行動は、迷惑以外の何ものでもない。その偏屈さが観客にアルマへの同情をいざなうレベルであるのがミソで、ここらあたりから、観客はアルマがいかにしてレイノルズに思いを伝え屈服させるのだろうという興味をもって以後の展開に刮目することになる。そして、そのアルマにとっての「目的」遂行のために、彼女はなんとも大胆不敵な方法に打って出るのだが、ここは観てのお楽しみである(とんでもないやり口だが洒落ている)。
仕事に偏執するレイノルズと恋愛に偏執するアルマの対峙は、ちょっとヒッチコック作品のようなサスペンスを招来したりもするのだが、この客観的に見るとどうにも不釣り合いな二人は反発しあってぼろぼろになりながらも、またなぜともなく結びついてしまう。この余人には救いがたき、奇異なる愛情とコンプレックスの道行きを描く本作は、ポール・トーマス・アンダーソン流の『浮雲』であった。