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【光る君へ】安倍晴明の予言の意味、伊周・隆家兄弟の運命の明暗をわけた悲劇とは(家系図・相関図)

陽菜ひよ子歴史コラムニスト・イラストレーター

NHK大河ドラマ『光る君へ』。世界最古の小説『源氏物語』の作者・紫式部(演:吉高由里子)と、平安時代に藤原氏全盛を築いた藤原道長(演:柄本佑)とのラブストーリー。

早いもので、今回の大河ドラマも半分近くが過ぎた。2人の恋愛についてはいったんここで一区切り。996年、まひろは父・為時(岸谷五朗)について越前へ行き、宋人たちと出会う。

為時は宋人の一人・羌世昌に漢詩を贈ったとされるが、残念ながらそれ以外の交流についてはわかっていない。朱仁聡(ヂュレンツォン・演:浩歌《ハオゴー》)は果たして信用できる人物なのか?

見習い医師の周明(ヂョウミン・演:松下洸平)の存在は気になるところだが、周明はドラマのオリジナルキャラのため、先の展開は読めない。直秀(演:毎熊克哉)と同様、まひろに大きな影響を与えることになるのだろう。

◆定子懐妊、せめて出家していなければ…

一方、京では波乱の予感しかない。

中宮定子(演:高畑充希)の母・高階貴子(演:板谷由夏)が薨去。兄の藤原伊周(演:三浦翔平)がまたもやコッソリ京に戻ってきてひと悶着あり。

史実ではやや残念で不用意な人物だと伝わる藤原公任(演:町田啓太)がどこまでもカッコイイ。

(参考記事:【光る君へ】超イケメンなのになぜか「残念」な藤原氏随一の超エリートとは?(相関図・家系図)5/4(土))

ついに定子には誰もいなくなった。道長に助けを求める尼姿の定子。その口から懐妊が知れる。思わず顔がゆがむ道長。

この先は、愛する定子の懐妊を知った一条天皇(演:塩野瑛久)が、僧形となった中宮を再度入内させ、貴族社会から非難が集中する。

それはなぜか?

出家すれば当然ながら、性交渉を持つことは許されない。これは、仏教の戒律で男女問わず異性関係が禁じられているためである。現代の僧侶は男女問わず公的に結婚が認められているが、それは明治以降のこと。

とはいえ、平安時代の女性の出家は「尼削(あまそ)ぎ」といって肩のあたりで切りそろえたもので、正式な「得度」を受けて剃髪したものではなかった。「形ばかりの出家」だといえなくはなかったのだ。

ただし、形ばかりとはいえ、天皇の生前に正妃が出家したことも、出家後に後宮で夫婦生活を続けたことも前代未聞だった。この「前代未聞」が問題なのだろう。

ドラマではここから先、定子を内裏に戻したい天皇と道長との間でバトルが勃発すると予想される。ちなみに藤原実資(演:ロバート秋山)も道長に同意していたことが実資の日記『小右記(しょうゆうき)』にも記されている。

実資は、のちの道長の娘・彰子(演:見上愛)ゴリ押しにはNoを突き付ける部分はあれど、おおむね2人は協調して政治を進めていくことになる。道長政権は、実資や藤原行成(演:渡辺大知)のような有能な人材に支えられたものだったのだ。

このあたりで、家系図をご紹介

◆この先誰もあなたにはかなわなくなる

◎安倍晴明の予言

ここから先は、定子の兄弟たちの今後について書いてみることにする。

前々回、「伊周は本当に自分を呪詛したのか」と悩む道長に、陰陽師・安倍晴明(演:ユースケ・サンタマリア)が「そんなことはどうでもいい」といい放ったのは記憶に新しい。

その理由は「この先誰もあなたにかなわなくなる」からだという。さすが晴明、現代のわたしたちは当然知っている道長の未来をいい当てている。

道長の「2人はどうなるのか」の問いに対して晴明は、「隆家さま(演:竜星涼)は、あなた様の強いお力となりまする」という。それは一体どういうことなのか?

◎大赦により帰京、復権を果たすも…

996年現在、伊周は大宰府、隆家は出雲にそれぞれ流罪となっている。しかし翌997年には、女院・詮子(演:吉田羊)の病の回復を願った恩赦を受けて帰京するのだ。あんなに騒いだ割には、割とすぐに戻ってくるのである。

背景には中宮定子の出産があった。定子は3人の子を産み、999年誕生の2番目の子が第一皇子・敦康親王である。定子は3人目の子のお産がもとで、1000年に25歳の若さで崩御してしまう。

この時点ではほかに天皇の子はいなかったため、敦康親王が次の春宮に立てられることは必須だと考えられていた。

将来の天皇の外戚である伊周や隆家を日陰者にしておくわけにはいかなかったのだろう。隆家は流罪以前の地位である権中納言に復権。伊周は大宰権帥のまま従二位となり、席次は「大臣の下・大納言の上」と定められた。

しかし、1008年に道長の娘で中宮彰子が第二皇子・敦成親王(のちの後一条天皇)を出産したことで、一転して敦康親王の即位は危ぶまれることとなる。1010年には伊周が失意のうちに没し、中関白家の将来は残された隆家の肩にかかることとなった。

◎自ら大宰府に赴任した隆家

『大鏡』によれば、兄とは異なり、隆家には人望もあり、定子の産んだ敦康親王が即位して隆家が補佐することを望む者もあったという。しかしそれもかなわず、1011年三条天皇(演:木村達成)の代になると、春宮には彰子の産んだ第二皇子・敦成親王が立てられた。

隆家は、1014年に自ら大宰権帥任官を志願して、大宰府へ赴く。というのも、隆家は1年以上眼病を患い引きこもるようになっていた。大宰府には唐人の名医がいると聞きつけてのことである。

貴族社会では規格外のさがな者(あらくれ者、不良)だった隆家が、大宰府の地では政治的な手腕を発揮する。1019年の刀伊の入寇(海賊による襲撃)における活躍で、一躍彼はヒーローとなるのだ。

3月末にはじまった約3,000人の大群の侵攻によって、対馬や壱岐などの島では数百人の虐殺や千人以上の拉致など甚大な被害が出ていた。征伐に向かった壱岐守藤原理忠率いる軍は大軍を前に大敗し、理忠は戦死。400名以上の住人がいた壱岐の生存者はわずか35名だったと伝わる。

4月7日、対馬より報告を受けた隆家は、2日後の9日には博多の警固所で総指揮官として九州の豪族らを指揮し、数日の激戦の末、見事海賊を撃退

この件で隆家は、朝廷に部下への恩賞を求める。しかし、事態は急を要したため、隆家は4月7日に朝廷へ報告を送るとすぐに博多へ向かった。そのため、朝廷から恩賞を約束した勅符(ちょくふ:天皇の勅を国司に下す公文書)が発給された4月18日には戦闘はほぼ終結していた。

信じられないが、朝廷では、「朝廷から討伐が命じられる前の戦闘は私闘とみなされる」として「恩賞不要」の意見が出たという。

しかし、実資の「ここで恩賞を与えなければ、この先進んで戦う者はいなくなるだろう」の言葉に公卿らも同意し、恩賞が与えられることとなった。さすが実資!

◆伊周と隆家の決定的な違い

◎実資、道長も認めた、隆家の「気概ある」性格

隆家はあらくれ者であるだけでなく、気骨のある人物だったとされる。やはり権力に媚びず、一本筋の通った実資とはウマがあったようである。実資は『小右記』で父・道隆(演:井浦新)や兄の伊周は批判しているが、隆家の相談に乗るなどの交流があったと記載がある。

隆家の気概を示すエピソードとして、1012年三条天皇の代に「一帝二后」となった際の話がある。一条朝の定子と彰子同様、本来1人であるべき天皇の正妃の地位に、2人の妃がたったのである。

道長の娘・妍子(きよこ)が中宮に、藤原済時の娘・娍子(すけこ・演:朝倉あき)が皇后となった。ただし、このときは道長のゴリ押しではない。娍子の亡き父・済時は大納言だったため、本来立后どころか、女御となるにも難しい身分だったのである。

光源氏の母・桐壺更衣の亡き父も大納言だったため、女御として入内できなかった。娍子は天皇の子を6人産んでいた功績で女御となったが、天皇の正妃(中宮・皇后)となるには、皇女か大臣の娘というのが通例だったのだ。

定子のときと同様、娍子には道長からさまざまな圧力がかかったが、隆家はそれにも屈せず娍子の皇后宮大夫に就任。その肝の座りっぷりには道長も恐れ入ったのか、隆家には一目置いていたと伝わる。

◎中央政界からは身を引いた潔さ

1019年大宰権帥を辞して帰京後は大納言への昇進の話もあったが、隆家は出仕しなかったため、昇進は見送られたという。さらに隆家は1037年58歳で再度大宰権帥に任ぜられている。1042年まで務め、2年後の1044年66歳で薨去

これらのエピソードから見て取れるのは、隆家の「達観」だ。現実を受け入れ、執着を捨てることで、心が平安な状態となる。「あきらめ」と似ているようで少し違う。

ドラマでは少し前に公任が「もう出世はどうでもいい。これからは歌など詠んで暮らしたい」と語ったのに似ている。(史実においては公任が達観するのはもう少し先のようである)

公任も隆家も、それぞれの父同様、(摂政や関白などの)執政者にこだわりを持ったままでいたら「不幸になる」と悟ったのではないか。「道長にはかなわない」と「負けを認める」ことで自由になれたのだろう。

◎権力に固執する者、解放される者

ドラマの中では「権力に固執する者」と「権力欲から解放された者」の対比が何度も描かれてきた。

放送開始当初、権力欲の塊だった道長の兄・道兼(演:玉置玲央)は欲から解放されて心穏やかに亡くなった。一方で、物語が進むに従い、欲がむき出しになっていった長兄・道隆(演:井浦新)は、修羅のごとき形相で死に向かっていったのだ。

道隆の息子たち、伊周と隆家も同様である。

伊周は従二位に叙せられるが。流罪前の内大臣になることはかなわなかった。とはいえ、「大納言より上」なら、大臣以下4~5番目の地位だったと考えられる。

弟の隆家はさらに下の中納言なので、伊周の方が出世しているのだ。日本で5番目に偉い人になれたら十分ではないか、という考えもあると思うのだが、いったん「自分が一の人になるのは当然」と思い込んでしまったら、その想いから簡単には抜け出せないものなのだろう。

このあたりは、現代のわたしたちにも通じる話ではないだろうか。

向上心を持つことは大切だが、「自分はここまで」という線引きをどこでするか。そこを見極めて「満足する」ことも、「心穏やかに幸せに暮らす」ためには重要なことなのだ。

(イラスト・文 / 陽菜ひよ子)

◆主要参考文献

フェミニスト紫式部の生活と意見 ~現代用語で読み解く「源氏物語」~(奥山景布子)(集英社)

ワケあり式部とおつかれ道長(奥山景布子)(中央公論新社)

紫式部日記(山本淳子編)(角川文庫)

枕草子(角川文庫)

歴史コラムニスト・イラストレーター

名古屋出身・在住。博物館ポータルサイトやビジネス系メディアで歴史ライターとして執筆。歴史上の人物や事件を現代に置き換えてわかりやすく解説します。学生時代より歴史や寺社巡りが好きで、京都や鎌倉などを中心に100以上の寺社を訪問。仏像ぬり絵本『やさしい写仏ぬり絵帖』出版、埼玉県の寺院の御朱印にイラストが採用されました。新刊『ナゴヤ愛』では、ナゴヤ(=ナゴヤ圏=愛知県)を歴史・経済など多方面から分析。現在は主に新聞やテレビ系媒体で取材やコラムを担当。ひよことネコとプリンが好き。

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