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社会に寛容さは必要だが「ねつ造への寛容さ」は要らない

不破雷蔵グラフ化・さぐる ジャーナブロガー 検証・解説者/FP  
↑ 世の中に求められる寛容さとは。ねつ造も「寛容さ」で取り扱ってよいのか

「世の中の寛容さが失われている」と評する識者と報道と

先日調査委員会の最終的な報告書が呈され、「虚偽の細胞」であることが認定された、いわゆるSTAP細胞問題。今件の処遇や周辺関係者の反応・対応に関し、特に当事者である小保方晴子女史に対し、激しい非難が寄せられている。だが、それに対し「寛容さも必要」「世の中が寛容さを失う象徴」と評し、追及をするべきではないとする意見が、先日共同通信から配信されている。

「夢の細胞」をめぐる一連の騒動は一体、何だったのか―。26日、理化学研究所の調査委員会は小保方晴子(おぼかた・はるこ)氏(31)による捏造(ねつぞう)をあらためて認定し、STAP細胞がなかったことはほぼ確実とした。前代未聞の不正に社会は揺れ続け厳しい目が向けられたが、寛容さが失われた今の時代の断面が表出したとみる識者もいる。

文芸評論家の山崎行太郎(やまざき・こうたろう)さんは「まだ誰もやっていない成果を追い求めるのが科学者。断罪するようなことは絶対に良くない」と小保方氏を擁護。一連の騒動が、寛容さを失っていく社会の風潮を象徴しているように見えてならないと振り返った。

出典:【STAP問題】厳しい目、寛容さを失う社会を象徴か  騒動の背後に(共同通信、2014年12月27日)

多くの被害者を出し、無駄に関連各方面のリソースを浪費させ、さらに多数の可能性を遅延させ、失わせたにも関わらず、当事者にはその罪の意識が無い状況は、ある意味異常ですらある。

今件の共同通信社の記事展開には、大いに疑問符を呈せざるを得ない。あくまでも「●×」との意見もあるといった切り口で、引用との形を用いて間接的に自己の主張を他人に語らせる、よくある「代理主張」的なスタイルをとってはいるが、内容的には「世の中が寛容でないから女史へのバッシングが起きている。この風潮は良くない」とするもの。

無論記事の前半では当事者への批判、さらには不正をすぐには見抜けなかった周辺への批評も語られている。しかしそれと「世の中が寛容でないからバッシングが起きている。この風潮は良くない」との意見を並列に表記することで、あたかも両サイドの考えが肩を並べている、同じようなポジションにあるとの誤解を招かせる、あるいは書き手側の意識が見えてくる。

この手法、以前「(1+0)÷2=1/2…「悪平等」を使ってオヤツを横取りする方法」でも解説した、悪平等によるものに他ならない。具体的な最近の事例を挙げると、例の非科学的表現で問題視された「美味しんぼ」の3週に渡る短期集中連載「福島の真実編」で、その最後の回においてスピリッツ編集部が行った、「ご批判とご意見」の列挙とそれに関わる「編集部の見解」。「正当な研究や論調をしている先生諸氏」と、「非科学的、あるいは妄言的、さらには自らの非論理的な主義主張を広めるために事象を悪用している諸氏」とを同一のテーブルに並べ、同じ確からしさにあるかのように表記してしまったというものだ。

さらにいえばこのような並列表記の場合、読み手は得てして前にある内容を前座的なものとして、後にくるものを本旨として受け取ってしまう。文章の構成の上では正しい手法ではあるが、それを逆手に取ったともいえる。平等に取り扱っているように見せ、その実、後ろの方が重要、そう印象付けることが可能となる。

なぜねつ造したことそのもの、その事実を認めず反省の意も評さない対象に、批判をことが「寛容ではない」として否定されねばならないのか。「寛容な社会」とは、ねつ造すら肯定する世の中なのか。そして「持ち上げて叩き落とす云々」と記事にはあるが、その行為はまさに今件記事を展開している報道各紙の所業・リードによるものが多分にあり、それの責任を含め、「寛容さが足りない」と世間一般にさりげなく転嫁しているのではないか。

試合の敗北には寛容たるべきだが故意の反則にはその必要は無い

野球の試合に例えてみる。勝負は時の運。どれほど全力を尽くしても、実力差があっても、負けてしまうこともある。その起因に意図的な所業があるのなら、その部分で反省すべきところはあるが、勝敗そのものを責めるのは酷というもの。これこそ「寛容さ」が必要である(これはオリンピックをはじめとするプロスポーツ競技で特に欠かせない)。

ところが今件STAP細胞問題は「試合に負けた」では無く「八百長プレーをして勝った。そしてその八百長が露呈した」というもの。あるいは意図的なルール違反(ドーピングや道具に仕込みを入れたなど)。この点で寛容さを出して良いはずがない。果たして八百長や意図的なルール違反が発覚した状態において、それを非難すると「寛容な社会」たりえないのだろうか。健全な業界の妨げになるのだろうか。

そんなはずはない。意図的なルール違反への寛容さは、本来の意味での「寛容な社会」に必要なものではない。

最終報告書にもある通り、法的拘束力のある調査が不可能なこともあり、当事者女史が否定した以上、さらなる追及は不可能ではあるものの、各状況はクロを示している。さらに一部ではクロたることを自明のものとしている。推理モノのエンディング近くでよく見られるシーン、主要登場人物が一堂に会して探偵役などが「この中に真犯人がいます」なる場面で、当該女史一人を部屋に配し、その部屋に向けて「この中に真犯人がいます」と語っているような状況である。

さらに身近な例を挙げてみよう。カンニングをして連続してテストで100点を取り、学校からその優秀さが評価され賞も受けた。しかしカンニングがバレて、これまでの優秀な成績はすべてカンニングの所業であることが暴露されてしまった。カンニングを見抜けなかった先生、さらには気が付かなかった、気が付いても報告しなかった他の生徒にも責任はあるかもしれない。しかし一番最初に、そして重いペナルティを受けねばならないのは、カンニングをした生徒自身。

その生徒が「自分はカンニングしてません」「100点は、とったんです」「つい袖の下に公式や化学記号のメモを書いちゃいました」と主張し続け、カンニングを認めない状況が許容されるべきなのか否か。そしてその生徒の反応を非難する周囲に対し「寛容な社会が」と押しとどめようとする意見がいかなるものか。

そしてそのような論調を載せる通信社自身の資質を、どのように解釈すれば良いのだろうか。

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グラフ化・さぐる ジャーナブロガー 検証・解説者/FP  

ニュースサイト「ガベージニュース」管理人。3級ファイナンシャル・プランニング技能士(国家資格)。経済・社会情勢分野を中心に、官公庁発表情報をはじめ多彩な情報を多視点から俯瞰、グラフ化、さらには複数要件を組み合わせ・照らし合わせ、社会の鼓動を聴ける解説を行っています。過去の経歴を元に、軍事や歴史、携帯電話を中心としたデジタル系にも領域を広げることもあります。

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