【江戸漂流記】漂流と救助、そして供養の人生!船頭・重吉が遺した記録と祈り
三河国佐久島に生まれた重吉は、尾張国半田村の百姓の養子となり、後に船頭として名を馳せました。
1813年(文化10年)、重吉が率いる督乗丸は江戸からの帰路、遠州灘で暴風雨に遭遇。船は舵を失い、484日間の漂流が始まりました。
漂流中、乗組員は次々と命を落とし、生還したのは重吉を含むわずか3名。
彼らは1815年にアメリカ近海でイギリス商船フォレスター号に救助されました。
その後、ロシアを経て帰国した重吉は、漂流生活の記録を『船長日記』としてまとめます。
この日記は、極限状態での生存術や漂流中の心理描写が克明に記された、貴重な見聞録です。
また、ロシアでの体験を記した『ヲロシアの言』も残しました。
生還後、重吉は尾張藩から名字帯刀を許されるも、供養のために御水主職を辞職。1824年頃、自ら資金を投じて亡き乗組員の慰霊碑を建立します。
慰霊碑は現在、名古屋市熱田区の成福寺に移され、重吉の祈りを今に伝えています。
参考文献
三田村博史(2013)『漂い果てつ―小栗重吉漂流譚』風媒社