原爆投下と終戦から75周年を迎える2020年。ポツダム会談の舞台となったドイツの宮殿で特別展開催
広島と長崎への原爆投下、そして第二次世界大戦(太平洋戦争)終結から75周年を迎える2020年。この大戦終結直前にポツダム会談が行われたツェツィーリヱンホフ宮殿(ドイツ)で、2020年5月1日から11月1日まで特別展示会が開催される。
同展示会担当の学芸員・マティアス・シミッヒ氏にお話を伺った。(以下の画像はすべて筆者撮影)
ポツダム会談とその宣言とは
ベルリンの隣町ポツダムは、かつてプロイセン王国フリードリッヒ大王の居城都市として知られる風光明媚な古都。日本人に大人気の観光スポット・サンスーシ宮殿やツェツィーリヱンホフ宮殿などで知られる「ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群」はユネスコの世界遺産に登録されている。
かつてのドイツ帝国の宮廷のあるこの街で1945年7月、アメリカ、イギリス、ソビエト連邦の三大国首相が集まり、「ポツダム会談」が行われた。その会場となったのがツェツィーリヱンホフ宮殿だ。
この会談で発令された「ポツダム宣言」に対し、日本政府はすぐには受け入れなかった。そのため、日本は拒否したと解釈したアメリカ軍は、広島(8月6日)、長崎(8月9日)へ原爆を投下した。その後、日本政府は8月14日にポツダム宣言受託を決定し、終戦となった。
ポツダム会談、ポツダム宣言…その名前は歴史の教科書や書籍で見たことがあるだろう。上記の三大国首脳によるこの会談の議題は、ドイツの戦後処理と日本への無条件降伏勧告だった。※参考:ポツダム宣言(Wikipedia)
このような経緯から、ツェツィーリヱンホフ宮殿は、「終戦のシンボル」と言われている。この75周年を記念して開催される特別展をきっかけとして、平和は決していつもあるのではなく、人々が努力して維持していかなければならないことを再認識したい。
特別展示の重点は4つのテーマ
ポツダム会談75周年の特別展「Die Neuordnung der Welt (世界の再編成)」は、4つのテーマに重点をおく。
1)16日間に及んだポツダム会談の中心人物となったアメリカのトルーマン大統領、イギリスのチャーチル首相、ソ連のスターリン書記長の三大国首脳にスポットを当てた展示。
2)ヨーロッパ再編成をテーマとした展示。
3)ツェツィーリヱンホフ宮殿の展示でこれまであまり注目されていなかったアジアをとりあげた。ポツダム宣言の様子とその後の広島、長崎への原爆投下を中心に展示。理由は、同宮殿の年間訪問者約14万人のうち、その大部分を占めるのが日本と中国ということが背景となっている。
4)時代の変り目となった1945年(第二次世界大戦終戦)と冷戦の始まり、そして戦争を知らない世代が増える中、先人の経験を知ることでこれからの私たちの生き方の指南となるべく願いを込めている。
バーチャル効果でより生き生きとした展示会に
この特別展の特徴は、特に若い世代に向けた展示をという目的から視覚イメージを多方面で利用したバーチャル効果を導入した点だとシミッヒ氏。
例えば会談が行われた部屋では当時の様子がバーチャル化され、入室するとまるで実際にその現場にタイムスリップしたかのような体感ができるという具合だ。さらに音声ガイドは、常設展と同じく日本語も含めて計12か国語を提供するそうだ。
アメリカ、イギリス、ロシアから、当時の様子を物語る展示品を借用することもできた。イギリスのチャーチルが愛用した葉巻入れ、帽子に杖や服など個人的なものも展示される。また、チャーチルが使ったものではないが、同型の黒い電話をイギリスから買い取り、展示する。
ロシアからはスターリンの肖像画やパイプを目にすることができる。これまで陽の目を見ることがなかった映画もロシアから提供される。特別展準備を通して、三大国とは友好的な関係を築くことができたそうだ。
チャーチルの秘書だった歴史の生き証人ハンターさんの証言と日記
この特別展のキーパーソンとなる女性についてシミッヒ氏はこう語った。
歴史を動かした人物は政界人ですが、その現場で当時の様子を日々体験した重要な目撃者の協力も得ることができました。ネットで検索中、ポツダム会談でチャーチルの秘書だった歴史の生き証人マルガレット・ジョイ・ハンターさん(1925年生まれ・旧姓ミルワーズ)を偶然発見しました。
シミッヒ氏は、ロンドン郊外に住むハンターさんを訪ね、インタビューにも協力してもらい、以来コンタクトをとり続けているという。
まずは2018年1月に公開された動画(英語版)をご覧いただきたい。ハンターさんとの出会いや背景を熱く語るシミッヒ氏の特別展への思いが伝わってくる。
これまで当時のことは誰にも話さなかったし、忘れるよう努めました。ポツダムでどんな仕事をしていたのか両親にも伝えていなかった。
と、告白するハンターさんは1943年からチャーチルのもとでいわゆる戦争の部屋(War Rooms)に勤務した。
このロンドンのオフィスではテレグラムや速記、電話対応などを担当した。1944年からは、ヒトラー・ナチドイツに対してD Day(戦略上重要な攻撃もしくは作戦開始日時を表す際にしばしば用いられたアメリカの軍事用語。※出典:D-デイ(Wikipedia))のタイプ打ちもした。
そして1945年、ハンターさんはポツダム会談参席のチャーチルに同行してツェツィーリヱンホフにやってきた。
2012年9月、ハンターさんは67年ぶりにツェツィーリヱンホフを訪問した。ポツダムに3日間滞在し、かつての仕事場やポツダム市内を観光したそうだ。
シミッヒ氏の説明はさらに続いた。
ハンターさんは過去を振り返り、感動や複雑な思いが蘇り、何度も立ち止まって私の腕によりかかりました。
なかでも今回の特別展のために、ハンターさんから日記を提供していただきます。これまで未公開だった当時の様子を知る貴重な資料です。是非展示会で見学してください。実は明日、日記を受け取りにイギリスへ向かいます。
実はこの日記、存在するはずのなかったものだという。1945年7月13日、ハンターさんが英国軍事基地空港からベルリンへ向かう際、搭乗前に携帯品をすべて提示せねばならなかった。しかも個人的なものは持参できなかったそうだ。だが当時19歳だったハンターさんは、写真アルバムへ日記を忍び込ませて、持参した。
「この日記は、時を経て、貴重な展示品として今回初公開となります」と、声を弾ませるシミッヒ氏。
日記には会談の様子が書かれているだけでなく、当時の生活が垣間見られる貴重な品も添えられている。例えばダンスパーティの招待状や各国代表のために作成された市街地図など。その存在さえ知る由もなかった展示品が特別展で公開されることは、シミッヒ氏はもちろんのこと、歴史専門家にとってもその意義はとてつもなく大きい。
ポツダム会談に関わったスタッフは総勢250名ほど。三大国主催のコンサートや晩さん会が定期的に開催され、スタッフは参加することができた。ただし、プライベートではほとんど交流がなかったらしい。ハンターさんはその中の歯車の一つとして務めたに過ぎなかったものの、当時の思い出は強烈だったという。
戦火を逃れるために家具や芸術品を避難させたサンスーシ宮殿を目にしました。ヒトラーの統治していたベルリンも訪れましたが、破壊された街を見るのはたまらなかった。人々の苦しむ様子や貧困状態、痩せ細った子供達や物乞いの光景が脳裏に焼き付いています。
そんなハンターさんが大切にしているのは家族だと言いきる。一年に一回、大家族が集まり食事をしながら談話に花を咲かせるのが何よりの楽しみ、そして幸せな瞬間だという。
2020年に95歳になるハンターさんは、健康であれば特別展に是非足を運びたいと意気込んでいるそうだ。
2019年はベルリンの壁崩壊30周年という記念すべき年だった。
この30年前のことでさえ、若い世代にとっては、史実として知るだけだ。そして原爆投下と終戦は、この壁崩壊の30年前よりもずっと過去の出来事だ。
11月にG20愛知・名古屋外務大臣会合に出席するために訪日したドイツ外務大臣のハイコ・マース氏は、これに先駆け広島を表敬訪問した。
ドイツ大使館によると、同大臣は平和記念公園を訪れ献花。松井一實・広島市長の案内で被爆したアオギリを見学し広島平和記念資料館を訪れて、このように記帳した。
これを機会に是非、歴史を改めて振り返り、これからの生き方の指南にしてほしい。ずっとこの平和が続くことを切に願うばかりだ。