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【深掘り「鎌倉殿の13人」】野添義弘さん演じる安達盛長が源頼朝に気に入られたワケ

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
安達盛長は、源頼朝の側近だった。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の29回目では、ついに安達盛長が亡くなった。盛長が源頼朝に気に入られたワケや最期について、詳しく掘り下げてみよう。

■安達盛長の来歴

 安達盛長の父は小野田兼広(あるいは兼盛)、藤原遠兼(足立遠元の父)といわれている。保延元年(1135)、安達盛長は誕生した。

 のちに妻となったのは、丹後内侍(比企尼の長女)である。比企尼は源頼朝の乳母だったので、頼朝との関係が盛長の運命を切り開いた。

 平治元年(1159)の平治の乱後、敗れた頼朝は伊豆に流罪となった。比企尼は頼朝の支援を惜しまず、娘婿の盛長も協力した。一説によると、頼朝と政子の間を取り持ったのは、盛長だったといわれている。

 頼朝は家来を持てない流人だったが、盛長は身辺で世話をした。2人は長く生活をともにしたので、盛長は頼朝の信頼を得るところとなった。

■盛長の大出世

 治承4年(1180)に源頼朝が「打倒平家」の兵を挙げると、盛長もただちに応じた。

 しかし、頼朝が石橋山の戦いで敗北し、安房に逃れると、盛長も行動をともにした。安房に上陸した盛長は、千葉常胤を味方につけるなど大いに貢献した。その後、頼朝は多くの豪族を味方とし、平家を滅亡に追い込んだ。

 盛長の貢献は頼朝に評価され、元暦元年(1184)頃には上野国の奉行人に任命された。建久10年(1199)1月に頼朝が亡くなると、盛長は出家して蓮西と名乗った。

 その後、盛長は「13人の合議制」の1人に加えられ、三河国守護にも任じられた。それまでの長いキャリアを考慮すれば、当然のことだろう。

■盛長の最期

 盛長は出家したとはいえ、その後も幕府内で大きな存在感を示した。正治元年(1199)の秋頃、梶原景時が結城朝光を讒言したことに端を発し、「反景時」の動きが活発化した。

 その際、「反景時」の急先鋒の1人になったのが盛長だった。盛長ら66名の御家人は、景時の弾劾状に署名し、源頼家に差し出した。これにより景時は鎌倉から追放され、翌年に梶原一族は滅亡したのである。

 正治2年(1200)4月26日、盛長は亡くなった。享年66。幕府に大いに貢献したが、生涯にわたり官職は授けられなかった。盛長の墓は、長泉寺(愛知県蒲郡市)にある。

■まとめ

 盛長の死後、安達家の家督を継いだのは景盛である。盛長は妻を頼家に寝取られたこともあり、大いに恨んでいたといわれている。しかし、頼家の死後は、家督を継いだ実朝の側近として活躍するのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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