【河内長野市】河内長野駅とノバティながのを結ぶ陸橋から見えたものは、なんと南河内最大の大仏だった!
最近は夕立というか、短期間の豪雨が河内長野市内を襲いますね。いつも雨雲ズームレーダーで雨雲の動きをチェックしながら街歩きをしています。
そんな中、河内長野駅で豪雨に見舞われたときのこと、意外な場所から意外なものが見えることを知りました。
場所は河内長野駅からノバティながの3Fに続く陸橋に来た時のことです。
雨の降り具合を確認しようと陸橋から外を見たときのこと、道路の先、遠くに屋根のようなものが見えました。
拡大しました。大きな屋根は寺院のようですね。まるで門前町のようですが、もちろん観心寺や金剛寺といった有名寺院がこの位置から見えるはずがありません。
しかし、角度を変えると、すぐに正体がわかりました。屋根の隣にあるのは河内大仏です。
河内大仏のことはもちろん以前から知っていました。「河内長野には大仏もあるのか」と初めて知ったときには驚いたものです。
しかし、河内長野駅とノバティながのを結ぶ陸橋から見えるとは、この日初めて知りました。
大仏は河内長野駅から北方向に向かう電車に乗るとその姿を見ることができます。こちらは南海電車ですが、南海側から大仏を見るのはなかなか難しく、かろうじて寺の屋根だけが写せました。
こちらは近鉄電車から撮影したものです。こちらからは見事に大仏の姿が見えていますね。
このように河内大仏は河内長野駅のすぐ北側、錦渓山極楽寺(きんけいざんごくらくじ)にあります。南河内地域で最大クラスの大仏だそうです。
ということで、改めて河内大仏を見に行くことにしました。河内長野駅から菊水町を経由し東高野街道を歩いていきます。
東高野街道を富田林方向に歩くと、さっそく大仏の姿が見えてきました。
東高野街道と比べて高台にありますが、この高さにあるからこそ、河内長野駅の陸橋から見えたんでしょうね。
さて入口には、河内錦渓大佛とあります。これが大仏の正式名称。
坂を上る階段です。極楽寺は錦渓幼稚園(外部リンク)を経営しています。幼稚園に通う幼児からすると当たり前のように日々大仏を見ているのでしょう。
極楽寺の入り口に着きました。極楽寺をおさらいすると、聖徳太子が推古天皇の病気平癒を祈願したところ、この地にある杉の根元にある霊水のおかげで天皇の病気が治ったとあります。そのため、太子が薬師如来を彫刻して本尊としたところから歴史が始まります。
その後一時期は廃れましたが、1321(元享元)年に融通念仏宗の法明上人により再興しました。よって現在は、融通念仏宗の寺院です。
境内に入りました。江戸後期化政年間の遺構と伝わる本殿があり、その右に大仏が鎮座しています。このふたつが河内長野駅から見えたんですね。
河内大仏が見えます。極楽寺によると大仏は近年建立されたものだそうです。また極楽寺はかつては温泉寺という名前でしたが、これには訳があります。
1906(明治39)年には石川に源泉がある温泉が極楽寺の境内にあったそうです。「極楽寺温泉」として、寺内の湯屋と三笑館という宿泊施設、料理屋がありました。
しかし、温泉旅館や料理屋での振る舞いが寺の趣旨に背くとして、温泉場を含めすべて撤去されました。大正時代には源泉が利用されなくなりましたが、その源泉を再度利用したのが長野温泉、河内長野荘が引き継いでいることになります。
下の部分が納骨堂で、その上に大仏が鎮座しています。坐像の大きさは3メートルほど。
これでは大仏にしては小さいイメージがありますが、大仏の定義を確認すればその理由がわかります。伝承では釈迦の背丈は1丈6尺(約4.85メートル)で、それと同じ大きさで作られたものを丈六仏(じょうろくぶつ)と呼びます。
この「丈六仏」より大きい仏像を大仏と定義しており、座っている坐像の場合は半分の高さが基準になっています。従って4.85メートルの半分の2.43メートル以上の坐像であれば大仏に定義されます。
こちらに河内の大仏に関してコメントがあります。少し見えにくいですが、読んでみると次のようなことが書いてありました。東大寺208世別当の清水公照(こうしょう)という人のコメントです。
こちらが本堂です。現在の本尊は阿弥陀如来です。
境内から出ると、高台から南海電車の線路が見えます。この先に河内長野駅があります。
ということで河内大仏まで足を運びました。いつも車窓から見え、また駅とノバティながのを結ぶ陸橋からも見える大仏さん。
河内長野駅からそれほど遠くないところにあるので、もっと頻繁に参拝できたらと思いました。
錦渓山極楽寺・河内大仏(外部リンク)
住所:大阪府河内長野市古野町12-1
アクセス:南海・近鉄河内長野駅から徒歩8分