【九州三国志】立花山城を拠点に、筑前の乱世を駆け抜ける!道雪、戦国の嵐の中で軍権を握る
元亀2年(1571年)、道雪はその軍功が認められ、筑前国守護代に任じられました。
同時に、立花山城を居城とし、名門立花氏の名跡を継ぎます。
この時を境に、彼は大友家の筑前における軍権を一手に握り、加判衆を辞任して筑前統治に専念しました。
以後、高橋紹運をはじめとする「筑前五城将」と共に、秋月種実、筑紫広門、原田隆種、宗像氏貞ら地元の勢力や、肥前の龍造寺隆信など、多くの敵と対峙する日々が続きます。
天正6年(1578年)以降、筑前は一触即発の緊張状態にありました。
道雪と紹運は、秋月氏や筑紫氏の勢力を押さえるため、幾度となく侵攻や防衛戦を繰り広げたのです。
たとえば、第一次筑紫侵攻や太宰府周辺での戦い、さらには柴田川の戦いなど、各地で激戦が勃発。時に龍造寺軍や宗像氏といった外部勢力とも交戦しました。
道雪はたびたび家臣を率い、自ら陣頭に立って奮戦。
家臣の由布惟信や小野鎮幸、安東連善らも彼の指揮の下で大いに活躍し、特に生松原や荒平城の戦いでは、これらの武将が名を挙げています。
筑前全域での戦いは天正7年以降も激化。秋月氏や宗像氏らの反乱勢力に対し、道雪は果敢に立ち向かいました。
特に生松原や柑子岳城を巡る戦いでは、敵軍の包囲を突破し、敵将を討ち取るなどの大勝利を収めています。
しかし、一方で、膨大な犠牲を強いられる場面もあり、道雪自身もこの戦乱に疲弊していきました。
それでも彼は戦場に立ち続け、筑前全域を巡る戦争を指揮したのです。
道雪は、その軍事的才能を発揮する一方で、立花家の将来にも深い思索を巡らせていました。
天正3年(1575年)、宗麟の命を受け、甥の統連から家督を譲られるよう圧力がかかりますが、道雪はこれを拒絶。
結果として、娘の誾千代に家督を譲る形で立花家を存続させる道を選びました。
さらに天正9年(1581年)、高橋紹運の息子・統虎(のちの立花宗茂)を婿養子に迎え、立花家の家督を彼に託しました。
この決断によって、立花家は一層その結束を固め、後の戦国史に名を残す勢力へと成長していきます。
道雪はただ戦うだけの武将ではありませんでした。
主君・宗麟に仕える忠臣としての役割を全うするだけでなく、家中の調停役や戦略の立案者としても活躍しました。
足利義輝の仲介による毛利氏との和議や、秋月氏ら反乱勢力への対応など、多くの困難な局面を乗り越え、彼の生涯はまさに乱世そのものと重なります。
天正12年(1584年)、道雪は筑前での戦いに明け暮れながら、その生涯を終えます。戦火に身を捧げた道雪の意志は、娘の誾千代や養子の宗茂へと受け継がれ、立花家の名は九州の歴史の中に深く刻まれました。
戦国という激流の中、道雪が切り拓いた道は、立花家と大友家の未来に大きな礎を築いたと言えるでしょう。