障がい者の友人が最期に遺したリアルなセックスと愛の記録。ガンで逝った彼の遺言を叶え映画に
映画「愛について語るときにイケダの語ること」は、いまはもうこの世にいないひとりの男の最後の願いから始まっている。
その男の名は、四肢軟骨無形成症の障がいのある池田英彦。
39歳の誕生日目前で彼は、スキルス性胃がんステージ4と診断される。
死を強く意識した彼は「今までやれなかったことをやりたい」と思い立ち、その想いは性愛へと向かい、自分と女性のセックスをカメラに収める、いわゆる「ハメ撮り」に走っていく。
そして、自らの死をクランクアップとし、それまで映像を自身主演の映画として遺すことを望んだ。
池田氏の「僕が死んだら映画を完成させて、必ず公開してほしい」という遺言を託されたのは、ドラマ「相棒」などを手掛ける脚本家の真野勝成。
20年来の友人であった真野は、「マイノリティとセックスに関する、極私的恋愛映画」や「ナイトクルージング」などを発表している友人の映画監督、佐々木誠に映像を託す。
こうして池田英彦企画・監督・撮影・主演、初主演にして初監督にして遺作となった映画「愛について語るときにイケダの語ること」は完成した。
池田氏の企みに約2年間協力し、撮影・脚本・プロデュースを担い、完成へと導いた真野。池田氏が亡くなって約6年を経て劇場公開を迎えるいま、彼は何を思うのか?話を訊くインタビューの後編へ。
自分のダークサイドをさらけだしたところがあったと思います
引き続き、池田氏の話から。なぜ、池田氏は自分の性体験を撮影して、それを世に映画として出したいと考えたと思うだろうか?
真野はこう語る。
「ひとつは映画を作りたいと思い立ったとき、ありきたりのものにしたくない気持ちが本人にあったと思います。
それこそよくある障がい者を主人公にした映画にはしたくなかった。なので、映画でも言っていましたけど、自分のダークサイドをさらけだしたところがあったと思います。
あと、一緒に並走していた僕からすると、自分が今生きていることを確認しているところもあったなと思います。
撮影していたときはあまり意識していなかったですけど、振り返ると、池田自身が体験した『楽しいこと』が本当だったということを確認しているところがあって。
よく撮影していた映像を自分で見返していたんですよね。
そうした自分が生きていた証をどこかで残したい気持ちがあったんじゃないかと思います」
障がい者に対する世の中の偏見や誹謗中傷といった無理解に
直面することはけっこうあった
なぜ、池田氏は「性体験」にこだわったのか?
このことについては作品内で、真野が何気ないがひとつ鋭い問いをしている。それは「初体験」について。
このシーンは、池田氏の「性」に対する複雑な胸中の一端が浮かび上がる。
なぜ、あの問いをしたのだろう?
「ほんとうに、あれは、カメラを回してたぶん初めてした会話だったんですけど、いままでそれこそさんざんバカ話をしてきて。
その中には、当然、性的な話もあった。
けど、そういえば『初体験』については訊いたことなかったなと思って、池田の初体験っていつだったんだろうとふと聞きたくなったんですよね。
前回、池田といるときは不思議と『障がい』を意識することはなかったと言いましたけど、とはいえ、障がい者に対する世の中の偏見や誹謗中傷といった無理解に直面することはけっこうあったんですよ。
たとえば、入店を拒否される店はあったし、街中で因縁つけてからんでくるおっさんとかいました。『おまえみたいなのが生まれてお母さんがかわいそう』とか言ってくる。
けっこう風当りの強い経験をしているんです。
風俗に関しても、池田が1人で行くと入れない。だから、僕がいっしょにいって、彼だけですといって入ったりといったことがあった。
そういう厳しい現実がある中で、彼の性体験の原点はどういうものだったのか、聞きたくなったんです。
そうしたら、まあ、地元から離れた関西の風俗店にいって、そこで初体験をしていて。その前に、詳細は明かしませんけど、女の子にああいうことを言われた。
女の子が池田に言ったことに悪気はない。一見、池田を気遣っているようにも思える。
だから、彼女が言ったことを好意的に感動的に受け止める人も多いと思うんです。
けど、池田の受けたニュアンスとしてはは微妙なものなんですよね。
結局、僕は『そうみられているんだ』と。
変な話ですけど、彼は風俗店にいって指名は絶対にしなかったそうなんですよ。気に入った子がいても指名しなかった。
それは、池田のどこかに『僕のような人間が指名しちゃいけない』という思いがあって、断られることに対する恐怖もあったのかなと推察できる。
まあ、指名しないで『誰でもいいです』と言ってたら、いつも指名のかからない同じ子が来るようになって、結局指名しているような形になってしまったというギャグみたいなエピソードもあったりするんですけど(笑)。
そのあたりも、彼が『性』に対してこだわっていたところかなと思います」
ただ、そうした「最後にやりたいこと」を叶えていきながらも、徐々にガンに蝕まれた体はそれを許さなくしていく。
友人の死に近づく日々をどう受け止めていたのだろうか?
「どこかに遊びに行く池田を撮れなくなっていくのが、寂しかったですね。
ただ、ふだんはいつも通りというか。
今まで通りで、会っているときは泣き言もいわなかったし、軽口叩いたりしながら、変わらなかった。
作品の後半になるとがりがりにやせ細っていますけど、いつもと変わらぬ感じでくだらない話をしていました。
作品にも収められてますけど、池田が『石原さとみをみくびってたわ』とグラビアみながらいって、僕が突っ込んだりして」
最後に会ったのは2日前で、亡くなる前日には電話で話していました
訃報はどう受け止めのだろうか?
「最後に会ったのは2日前で、亡くなる前日には電話で話していました。
亡くなるまでの2週間というのは、もういつ亡くなってもおかしくない状態だったので、心の準備はできていました。
ただ、一度『もう今日持たないだろう』となって、僕は池田を紹介してくれた友人に連絡したんですよ。
そうしたら彼は上海にいて、でも飛行機を調べたら空いていて、その日のうちに帰ってきてかけつけてくれたんです。
ところがモルヒネを打ったら池田が元気なっちゃって(笑)。『真野さん、池田、元気じゃないですか』と責められたんですけど、それから1週間後ぐらいに亡くなりました。
その少し前に池田にはカメラとこれまで撮りためてきた映像を渡されました。
それで、自分が死んだら公開していいよと。死んだらもう無になるからどんな人に何を思われても関係ないと言って。
映画でも使われてますけど、家族が反対したらそれは僕の意思に反することだからって、ちゃんと彼らには了承をとったと言って、託されました」
池田が望んでいた『問題作』になっていると思いました
2年の闘病の末、池田氏が逝ったのは、2015年10月のこと。
真野のもとに残された60時間以上に及ぶ映像は、すぐに映画にしようと乗り出したわけではなかった。
「作品でも触れられていますけど、テーマが同じではないかと、2015年2月に佐々木誠監督の『マイノリティとセックスに関する、極私的恋愛映画』を観にいって。
上映後に佐々木さんと挨拶をさせてもらい、池田は佐々木さんと会ったのはその1度だけ。
でも、僕はそのあと、親しくなって、仕事も一緒にしたんですよ。
その間、池田の映画を作ろうとしていることを佐々木さんには伝えていて、『自分に編集技術がないからどうしようかと思ってるんですよ』と言ったら、『僕、ちょっと見ていいですか』とか言われていたんです。
それから、佐々木さんにことあるごとに『あれどうなりました』と聞かれていたんです。
ただ、お互い仕事が忙しくなってしまったりして、なかなか進まないでいた。
それで昨年の初春ぐらいですか、佐々木さんから連絡がきたんです。『いま時間があるから素材をちゃんとみてみたい』と。
それでほんとうに池田に渡された素材をそのまま丸ごと渡したんです。
日付とかクレジットとか何も入っていない。ほんとうに素人がただ撮っただけの素材を」
すると、6月につないだものが帰ってきたという。
「いや、びっくりしました。佐々木さんが全部みごとに見てつないでくれていて。
僕はどういう作品にしたいかのイメージも伝えていなかった。なにも相談していなかった。
にもかかわらず、イメージ通りの作品になっていたんです。
見終わって、『池田はたぶん、これを待ち望んでいただろう』と思いました。
最後まで役所の職員として彼は働いていたんですけど、その顔とは全く別の姿が見えてくる。
彼が最も望んだ自分のダークサイドが出ている。
また、ドキュメンタリーなのか、フィクションなのか、わからないものにもしたいと言っていたんですけど、まさにその境界を往来するような作品になっている。
池田が望んでいた『問題作』になっていると思いましたね」
池田も納得の表情でみてくれているんじゃないか
いま完成した作品をこう受けとめているという。
「単純に映画としておもしろいものができたと思っています。
手前みそになりますけど、自信を持って人におすすめできます(笑)。
池田も納得の表情でみてくれているんじゃないかなと思います」
「愛について語るときにイケダの語ること」
企画・監督・撮影・出演:池田英彦
出演:毛利悟巳
プロデューサー・撮影・脚本:真野勝成
共同プロデューサー・構成・編集:佐々木誠
アップリンク吉祥寺にて公開中
場面写真はすべて(C) 2021 愛について語るときにイケダが語ること