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「二ヶ領用水」の歴史 川崎を支えた神奈川県最古の人工用水

和合大樹/Wago TaikiWAGO PLANNING代表(川崎市)

日本は古来より農業中心、もっぱら米などの稲作が経済の中心でした。今でこそ農家人口は減少の一途を辿っていますが、これまでの川崎市を語る上で農業は欠かせません。

そして、ここ中原区にも農業を支えた偉大な遺産が存在するのをご存知でしょうか?

今回は、中原区を含めた沢山の地域に跨り、地域の農業に貢献した「二ヶ領用水」について紹介します。2020年3月には、国の登録記念物(遺跡関係)に登録された文化財でもあります!

二ヶ領用水
二ヶ領用水

神奈川県最古の人工用水「二ヶ領用水」の歴史

二ヶ領用水の建設と小泉次太夫

「二ヶ領用水」が誕生したのは1611年(慶長16年)、江戸時代初期の事です。当時の「二ヶ領用水」は現在のような小川としてではなく、水田に水を引くための重要な灌漑用水として工事が行われました。

■灌漑って何?

近くの河川や地下水、湖などから水を引き、人工的に田や畑へ人工的に給水をしたり排水をしたりする事。この役目を果たす用水の事を灌漑用水と言います。

この時期の関東は未だ発展途上の地域であり、徳川家康が駿河国(静岡県)から江戸に移った頃は、全ての整備において豊臣秀吉のいる大阪などに遅れを取っている状況。そんな中で家康は、経済の基盤である農業生産力向上のため、多摩川沿岸一帯の開発に着手しました。

そして、その際に起用された人物が小泉次太夫。家康が江戸に移転する時に、駿河から連れてきた人物です。

次太夫は1597年(慶長2年)2月から調査を開始、そして1599年(慶長4年)6月から「二ヶ領用水」の工事に着手しました。

ちなみに、この頃の多摩川沿岸地域の村は、一村にわずか7、8軒ほどしかいない非常に貧しい状況だったと言われています。

過疎地の更なる農業生産力低下を恐れた次太夫は、工事期間と農業生産期間をそれぞれ3ヶ月ずつ取り、農業に支障が出ない方向で工事を行いました。そして、1611年(慶長16年)に「二ヶ領用水」は竣工。

この「二ヶ領用水」が完成した際の次太夫の年齢は73歳にまで達していましたが、完成まで年20日しか休みを取らず、寝食を忘れてこの事業に没頭したそうです。

田中丘隅による多摩川改修

灌漑用水として「二ヶ領用水」が完成すると、中原の農業生産力は強化され、100年間で約130haの耕地が開発されました。その影響からか、逆に今度は供給される水不足に悩まされるようになり、村同士で争う事態にまで発展します。

そこで、多摩川改修のために幕府の役人である田中丘隅(たなかきゅうぐ)が“御座法書”を住民に公布して、水利用の秩序を正したり、取水や排水口の改修工事を行うなど改善に努めました。

しかしその努力も虚しく、水争いは絶えず勃発し、1821年(文政4年)には「二ヶ領用水」史上最大の争い“溝口水騒動”が発生してしまうのです。

明治以降の 二ヶ領用水

争いが絶えなかった江戸時代後期の「二ヶ領用水」ですが、幕府が崩壊して明治政府に移行すると、その役割を変えていきます。明治時代に入ってからは横浜や東京などの大都市の水不足を解消するために「二ヶ領用水」の水を使用するという計画が経つなど、水道水源としての活路を見出したのです。

その後は、農業地帯から住宅地へと変貌を遂げた「二ヶ領用水」付近ですが、現在は一級河川として中原区や他の区でも憩いの場として住民から愛されています。

二ヶ領用水
二ヶ領用水

※この記事は「なかはらPR」より転載しております。オリジナル記事が読みたい方はこちらからご覧下さい。

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